断グリ続き

あと、京極堂や木島日記と比較できるとした場合、あからさまに違うのは問題がほぼキャラクター単位に還元されてることで、それが「エロゲーっぽい」てことになるのかな? ヒロイン(個人)のトラウマ/内面/物語が事件の全てである*1ていう。
そうなってくると、ライトノベルなり最近の小説なりで、そういうキャラクター単位への還元がどこまで進んでるか、キャラクター中心の構成への反動の流れはどうなってるのか、が知りたいですね。こんなん、通り一遍のストレートな流れのはずはないので。ジョジョスタンド能力のような個人単位で完結した特殊能力の流布は「世界設定」の細分化、個人化の最たるものだけど、一方でギャルゲー的キャラクター単位を前面に押し出している「ネギま!」は、魔法については世界設定として処理していてスタンド能力的な考え方は採用していない。そのへんはハリーポッターの影響も考えるべきなんでしょうけど。
ゲーム方面の「キャラクター」の流れも当り前ながら錯綜してるんで、古いのはマリオやパックマンみたいな話がある*2でしょうし、ゲーメスト増刊の「ギャルズ・アイランド」に代表されるようなアーケードゲームの女性キャラクターの流れもある。コンシューマーゲームのキャラクターはRPGのキャラクターの思い入れに対する女性同人作家の後押しがあるし、PCのエロゲーはCGの一枚絵の美麗さの伝統、「ときめきメモリアル」のあたりはゲームと声優の関係の絡みが問題となる。あと当然、一見して可愛く見えないキャラクターデザインがゲームシステムを介することで可愛らしく思えてくる、いやむしろ「ときメモ」はこの絵柄だからこそ萌える、というブームのインパクトも忘れちゃいけない。
ノベル系のゲームはノベルに辿り付く前に上の流れを一通り受け継いでる*3んですが、それが「当り前」としてスルーされてるんで、キャラクターに対する考察や読み込みがむしろ雑な気もします。プレイヤーも業界も、過去にそれだけ厚みをもってたからこそ「恋愛ゲーム」なる感覚が成立した、とも言えますが。
ただ、複雑なものを全て「恋愛ゲーム」としてひとつにまとめてしまった。恋愛ゲームの恋愛をキャラクターの内面(物語)への読み込みとしてのみ引き継ぎ、「物語ゲーム」としてしまった。
そこらへんでやせ細ってしまったものを、内面(物語)だけがキャラクターの属性じゃない、てとこでキャラクターを多層的に捉えなおしたい(キャラクター単位で商売が動くのは、ホームズやディズニーの時代から既にわかりきってるんで)てのがエロゲーやギャルゲーの問題意識、になってくれればいいのになあ、と夢想してる僕、という話ですが。

*1:物語上のヒロインにトラウマを与えた母親が事件の直接の被害者じゃない点に注意。一般的な推理小説の殺人事件の、殺害動機の発見が推理の非常に大事な要素として見出される、つまり被害者と犯人の関係中心のそれと異なる。無差別な(自動的な?)現象としての事件。

*2:アメリカあたりでマリオやパックマンがゲームから分離されたキャラクターとして認知されるのが、日本より早かった。パックマンはアニメ化されるしマリオも映画化されてるわけで。

*3:あと当然、小説やアニメといった他の文脈も。