ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えられなければならないということはわかるけれども、そのスタイルでどうして、「プレイヤーという存在」というテーマについて学術的に考えることができるのだろう? というジレンマを、僕は無視できないでいるのです。
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20060808

クリティカルな話だと思うのでリンク。
前にRGNを主催されてる井上さん(id:hiyokoya)や先日発表されてた茂内さん(id:AYS)や他何名の方々かと夕食をご一緒させていただいたときに、「ゲームを学問で取り込もうとしたら<アート>みたいな形でしか取り込めないでしょう」て不遜にも放言したことがあります。海の向こうのゲーム研究者やゲーム開発者がゲームについて語ると「ゲームはアートだ」と言いがち*1、という話を受けてのことでした。
ゲームをゲームプレイそのままの形としてアカデミックな話に取り込むことは、最終的には無理があるだろう、というのが素朴な直感であると同時に僕が予想している結論です。
えー、例えばですけれども、id:work_memo:20060808で「抵抗」ていう言葉について解説されてますよね。でも多分、僕あたりが「ゲームをプレイしている」と感じる感触の中核にあるのは、その「抵抗」という言葉が指している部分と多くの部分が重なるはずなんですよ。なんだけれども、「抵抗」て言葉をあてがわれたときに、ゲームプレイという行為の中核は「抵抗」て言葉の外側にあるものとして捉えられかねない。
ゲームはデザイナーのものかプレイヤーのものか、て話じゃないですよ。そうじゃなくて、厳密に言葉を繋ぎ合わせて学問を築き上げていく行為の過程で、言葉や数値の隙間は排除され締め出されるしかないですけど、でもその隙間こそが「あそび」であって「遊び」なわけですから、遊びそのものを捉えることは哲学者の言葉を持ち出すまでもなく出来ない。
ただ、それでも空間や時間の空いているところを何がしかの形で切り出してみせることは出来るわけですし、どれほど緊密に言葉や数値を結び付けても記号と記号の合間を埋め尽くすことはできませんから、どんなところにも「遊び」が入り込めることも自明なわけです。ならば、高い蓋然性で「遊び」を見出せる時空間を囲い込んでいけばいい。
コンピューターゲームに絞り込んで研究していく人たちがいるということは、ゲームそのものは捉えられなくてもゲームの隣接する諸事情は捉えられるという自覚と前提をもってすれば無意味じゃないと思うのです。
ということで、RGN#3の関連諸記事を読んで、今回の「プレイヤー」の話は、「一人遊び」のコンピューターゲームを「複数人数の遊び」へと読み替える作業だと捉えました。

*1:日本のゲーマーやゲーム開発者では「ゲームは玩具だ」みたいな言葉のほうが支持されやすいのと対比して