RGN記事へのレスの準備、その2

で、
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060412#p3
の続き。
終わる前がゲーム、終わった後のその終わったものを指して物語、という話を続ける。
物語は受け手の実生活で考える必要のない確定情報である。けれど、ゲームは終わってないから、それがプレイヤーの実生活に深く関わってくるかどうかは実はわからない。しかし、僕らはゲームと呼ばれるものが「遊び」の範疇で、実生活と直接的にはリンクしないことを知っている。具体的には、ゲームの中でいがみあい対立する対戦相手とは、ゲームの外では対立しないとされる。あるいはゲームの勝敗の結果は実生活に持ち込まれない。実際にはこれらは賭け麻雀や接待麻雀の例を持ち出せば一発でひっくり返されるようにグレーゾーンの領域が非常に大きいのだが、なんにせよ建前としてゲームと実生活は分離して扱われるのが基本だ。
で、この実生活と別枠で考える、という建前もしくは思い込みのあり方こそが、ゲームをゲームたらしめる上で不可欠となる。要するに、スポーツマンシップのようなプレイヤーのある種の倫理観を、あらゆるゲームにおいてゲームが成立するための前提条件に組み込まなければならない。
物語とは小説や映画や漫画や健康食品の科学的説明といった代物が受け手の実生活にとって無意味で無関係であることを確認する手順であり、その手順の構造を指していた。受け手が見出す以上それは内部構造であり、外側、受け手ではない他者がその内部構造の把握を共有することは究極的には不可能だった。もちろんある価値観を共有していればある程度までは同じものを内部構造として認識するだろうけれども、それは結局は小説や映画といった作品に拠るものではなく、共有される価値観の側、社会集団の側に拠っていた。
ゲームはその逆だ。ゲームの予め決められたシステムや構造には、そこに参加するプレイヤーにとって「実生活において無意味で無関係」であることを保障するなにものもない。(ここで先ほど出した「賭け〜」や「接待〜」の例を思い出してみてもいい。「〜」の部分には事実上どんなゲームでも入る。)そもそも、そんなことをしたら参加できないから「プレイヤー」になれない。ナンセンスな話だ。である以上、ゲームが成立するには多かれ少なかれそれがゲーム(遊び)だ、とプレイヤー各人がゲームのシステムやルールに関係なく意識しなければならない。それは構造にはけして還元できない。むしろ、複雑な構造を有するゲームをゲームとして遊ぶほどに、それに対抗すべく、プレイヤーは「これはゲームだ」という認識を強く持たなければならなくなる。バランスがとれなければゲームはゲームではなくなる。クソゲー扱いされるとか、まあそういった幾つかの破綻が知られている。そこに「ゲームと現実の区別がつかなくなる」という結果が生じるかについては僕の手に負える問題ではないし、ゲームのデザインの問題とも思えない。
とりあえずここまで。続くかどうかは知らん。