『C†C』

批判じゃない議論じゃない。←呪文
ノベルゲームの分岐するシナリオは何処で分岐するのか、と考えた場合、多くは選択肢で分岐する。他にスタート時点でランダムで開始される『弟切草』のそれがあるけれど、それを指して「分岐」と言う人はあまりいないと思われる。で、分岐と密接に関わりあう選択肢が『C†C』では非常に無造作に投げ込まれている。ちなみに『鬼哭街』では選択肢が存在しないため結末が一つであり、『腐り姫』では「もうその先のループはない」という状態のEDが4種類用意されている。(正確には3つはループを終焉させ1つは特殊な形でループへと回帰する)
『C†C』のシナリオの構造も設定もシステムデザインも基本的に全て意図的であるとして(普通はどんなジャンルのどんな作品でもそういうものだが)、『鬼哭街』のように文中選択肢を完全消去しなかった意図を考えた場合、選択肢を無意味なものとみなし、繰り返しと選択肢の関係を積極的に切断しようという思惑が想定される。その思惑がプレイヤーに受け入れられた場合、ゲームシステムを介さないテキスト(とCG)のみの取引関係を受け手と送り手は結ぶわけだが、その関係性の中で語られる繰り返しへの言及が選択肢によってストーリーが分岐するノベルゲームの形式の「脱構築」なるものに成り得ているのだろうか。
結論を言ってしまえば、その場所はおそらく、ノベルゲームの形式の内部ではなく外部だ。
あえて言うなら、『C†C』が座するのは「ノベルゲームとは分岐するシナリオを全て読んで世界観の全体像を掴むのが目的のゲームである」という前提でノベルゲームをプレイするという規範集団の内部であり、その集団の規範に基づいて「プレイヤーの意思決定など世界観を把握するのには必要ない」という裁定を選択肢というシステムに対して下し、選択肢を選ばせようとする他者(複数ヒロイン)の存在を世界から排除し、完全に安定し変化しない世界に降り立つことで、『C†C』主人公は全知となる。それが母胎回帰とかそーゆーのであることは、母を思い出すことでその境地に辿り着くという描写でも明快に記されている。
なお、ノベルゲームがそのような「全シナリオを読み解くことでひとつの系を…」といった作品ばかりではないことは、今までも指摘してきました。『弟切草』『ONE』『Kanon』『水月』などですね。他にもコンシューマーで『最終電車』『m〜君を伝えて〜』などがあります。特に『m〜君を伝えて〜』のEDバリエーションの豊富さは有名なところで、普通の恋愛ゲームのつもりでいたところを坂本真綾の声で「ごめんなさい! あたし、実は3ヶ月前に死んでいたんです! けど、どうしても逢って好きだって伝えたくて…さようなら…」と言われて彼女が消えた途端にEDテーマ*1が流れ出した日には貴方、ショックのあまりしばらくの間は何も手がつかなくなります。
まあ、そこまで極端じゃなくても、プレイヤーの世界観網羅の欲望への「脱構築」ならば既に鍵ゲーで達成されている、で問題ないと思います。

*1:また無駄に切なくていい曲なんだコレが。