召喚魔法と異界の越境と その7

 FF10最重要ネタバレあり。

 もちろんそれでも「数の及ばない領域」への希求は作り手側にも受け手側にもあって、例えばFF10のメインシナリオライターである野島一成のシナリオは特にその傾向が強い。シナリオのクライマックスにおいて「戦わないこと」を求めたり、「プレイヤー達が最後の決戦を行わなくても世界は救われていた」といったシナリオ展開を仕込んだりする。

 そうしたシナリオの側からの請求は常に「一本道」という批判を呼び起こすのだが、では「一本道」とは何かと問えば、それは常にキャラクター個人、人格を持つ主人公のレベルに収束される物語である。弁証法の話で言えば、テーゼもジンテーゼも個人の心理や行動に収束していく、いわゆる普通の物語である。

 FF10でもFFの半ば伝統として、寄り道してアイテム探しするのが後ろめたくなるような追われるシナリオ展開がクライマックスまで続く。過去にはDQ派とFF派という対立構図が描かれ、FFのシナリオへの批判が執拗に繰り返された。10ではそうした批判をも踏まえ、ゲーム本来の物語構造にシナリオを合わせるべく、シナリオ構造においてアクロバティックな展開を仕込む。

 すなわち、ゲーム開始前のOPムービーでは、主人公ティーダが旅の仲間に話しかけるところからスタートするのだが、このシーンはクライマックス間際、飛空艇を入手して世界中を巡れるようになる直前のシーンであったことが最終的に判る。それまでの「一本道のストーリー」はティーダの回想シーンであり、回想が終了した時点からプレイヤーの時系列とPCの時系列が一致するのである。
 ここで物語の主体が入れ替わる。それまでのシナリオ展開でしばしたティーダを軸に「お前の物語」「オレの物語」といった思わせぶりな台詞が繰り返されるが、OPムービーの時点にまで辿り着いたとき、ヒロインのユウナから、これは「私たちの物語」であると指摘され、ティーダもそれに同意する。

 FFなど旧スクウェア系列のRPGでは、DQが比較的移動の自由が保障された「世界が徐々に開けていく」いわば▽型の広がりを見せるのに対し、しばしばラスボス戦に突入できるクライマックス直前に至って一気に行動可能範囲が広がる「T字型」の構成を取る。パーティ戦闘が主流である現在のRPGにおいて物語の主人公がその中の一人でしかないことも含めて、FF10のシナリオはその構成を逆手に取ってみせた。

続く。