その他・るりあ先生あてというわけではなく、ゲーム話をしたがる人全部あて。

いまどきゲームて言葉について何か言いたいなら、最低限

『GPM』を「自由」つまり「可能性」を追求したゲームだと捉えることは、それを賞賛するにせよ否定的に考えるにせよバカだ。あのゲームのどこに「自由」がある? 例えば「目的もなく漫然と日常を過ごす」ようなことができるか? まあ一応できはするけどその際『GPM』が吐き出すのはごく限られたウンザリするほど変わりないパターンのメッセージと時間経過だけだ。なにが「自由」だって? 『GPM』は目的論的思考に縛られた徹底して不自由なゲームなのであって、極めて古典的な収集とパラメータアップのゲームなのであり、しばしば言われるようなラジカルで深いゲームなどでは決してない。
(中略)
仮想現実的なシミュレーション世界や自律AI型NPCとかいう怪しげな惹句が消え去り、収集と数字という『GPM』の相貌が垣間見えたというか。収集と数字というのは目的論的なものではあるけど、その目的は無限に先送りされ(コンピューターの容量の問題としてある物理的な限界点は生まれるけれど、それによってさえも先送りの運動性は些かも揺らぐものではない)、ここに至っては目的が目的として機能しないのです。ただその持続だけが快楽となる。
http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/06.html

ぐらいは読んでから(もしくは同レベルのことを書いてから)言ってほしいと思います。