エロゲ沢村考察ファイル

あー。案の定、実はみんなイイ人でした、ってカンジなのかな? かな?
……
嘘だッ!
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060325/p2

大丈夫です僕はちゃんとヤナ奴ですから。あと薫さんとそのお友達さんたちはおそらく「ひぐらし」やってないので多分世界中で僕一人が腹抱えて笑い転げたと思われるid:rulia046:20060321:p1についてですが、「ひぐらし」やる前から「はぅ〜かあいいよぉ〜……はぅっ! い、い、いい今木さんおおおお持ち帰りぃぃ〜!!!」とかリアルで言ってる*1身としては鉈使いと看護士の二役を希望します。
 

「ゲームデザイナーがプレイヤーになにを期待してるのかを読み取らなくてはならない」
 のならば、
「まさにこれはアドベンチャーゲーム」的だ。

については、
ここの「鍵開け」の話について言っているのかな、と。
アドベンチャーゲームサウンドノベルビジュアルノベルの間の形式からくる差異が気になる身としては、コマンド入力/コマンド選択を行わせるAVGと地の文の流れに即した形で選択肢が現れるサウンドビジュアルノベルを「作り手の用意したシナリオを読ませるのがメインだから」とまったく同列に扱おうとすることが捩れの原因のひとつだと思っています。ええと「AVGとは何か」については「ミステリーハウス」やら「ポートピア殺人事件」やらの古典ゲームの研究のページがいろいろあるからそっちを読んだほうがいいかと。
で、プレイヤーキャラクターの行動が「みる」「はなす」「しらべる」「いどうする」などのコマンド形式で管理されていた「パズル性」の強い時代から、とにかく読み進んでいって途中の選択に応じて様々な展開を楽しむ「だけ」のビジュアルノベル・ノベルAVG全盛の時代に至るまでのすさまじく広い振れ幅をまとめて扱おうとして歪みを抱え続けてきているのが現在です、という。その歪みを歪みとみなさない読み筋を水面下で支えてきたのがエロていう強力な保証制度である、というのがid:tdaidouji:20060317#p1の話のひとつです。
その振れ幅をミニマムな原理で一貫させようとして記述しようとすると選択肢(の複合)でプレイヤーが意思決定できるのがゲームなのだという話が出てきて、そこから「意思決定できないように<どっちを選んでも結果は変わらない>選択肢を採用するのが反ゲーム的である」という話が導き出され、そっから風邪をこじらせていくと運命論だの決定論だの自我だの多世界解釈だの自由とは何かだのと語りだすようになります。馬鹿みたいですが、そんな話をエロゲーでやってるていうとありがたがるのがこのへんの界隈です。
 
で、

「ゲームデザイナーがプレイヤーになにを期待してるのかを読み取らなくてはならない」
だなんて、要求は必ずしも受け入れられない。それを充たすコトなくゲームは作れるし。

については、あまり意味のある問題提起とは思いません。コマンド選択のAVGはゲーム開始の際の前提条件をきっちり用意する(プレイヤーキャラクターに刑事や探偵役を割り振る、開始時から問答無用に目標を明示しておく、など)ものが多い。エロゲー発のAVGのプレイヤーキャラクターがそうした明確な目標を持たずにいられたのはエロCG獲得というストーリーやシステムデザインに浮上してこない目標がプレイヤーの行動を含めた全体を律しているからです。そして、外部から見ると非常に判りにくいのですが、そのへん転がってるエロゲ論大好きな人がエロゲーのシナリオ論を語るとしばしばエロについての機能論は抜け落ちる。

エロゲーのシナリオは今は多様性を帯びており、コメディ、シリアスラブストーリー、アクションなどに特化しており、エロがおまけでくっついているような作品が多く見受けられます。
http://minegayatu.blog5.fc2.com/blog-entry-4.html

エロという重力がゲームシステムの重力を打ち消すことで、エロゲーのシナリオは「多様性」を獲得したとみるべきです。

友人のMさんが、かの偉大なる名作『To Heart』をプレイして述べた感想が「エロいらね」だったのだが。
後に、Mさん全年齢版をプレイし、そして「エロ無いとものたりね」と述懐しておられた。
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060324/p1

さもありなん、ですし、その「エロいらね」の感想こそがノベルもののエロゲーギャルゲーの現在に直結してるわけで、『To Heart』コンシューマー版の発売とその成功こそがノベルのエロゲーがエロ抜きゲーム性抜きで成立しうるという幻想を成立せしめたのであり、その意味においてPS版『To Heart』こそがエポックメイキングであるという元長柾木の主張は正しかったわけです。まあ捩れてこそ、勘違いしてこそ文化の発展もあるというものですし、皆が勘違いしなければ『つよきす』も生まれなかったと考えれば、別にどうでもいい話ではあるのですが。風邪をこじらせた人がそこらじゅうで咳をしてるもので、自分用に風邪薬の処方箋を作ったらこうなりました、という話。