「紙芝居」をめぐって

 Forestを批評するのに手っ取り早いツールといえば『動物化するポストモダン』だ。最終章のYU-NO説明のように、基本的にはレイヤーによって半可視化した「構造」を用いた表現について語ってる。Forestが「物語」への言及に終始するのも(「ゲーム」への言及が要請されるのも)基本的には動ポモと同じ思考をなぞってみせるから、と言っていい。Forestはそうした立ち位置を作品内に設定し語ってみせるのだが、それは作品がそのような超克の形式に適した舞台や設定や叙述を用意しているのであって、Forestであれ元長柾木シナリオであれ麻枝准であれトノイケであれ、一作品内の限定された設定と結論がノベルゲーム全体の総論足り得ることは、当り前だがありえない。というより、通常作品というのはノベルゲームの状況論などという狭い領域について語ったりせず、その設定と物語と描写によって人の生や世界の成り立ちや宇宙の真理と向き合うのであって、作品からビジュアルノベル全体の性質に通じる議論を引き出すためにはビジュアルノベルと宇宙の真理との関連性、共通性、相違について考えないと話にならない。

 Forestは、立ち絵、背景、キャラクター、台詞、音声、エロシーン、選択肢、物語、それぞれの配置をスライドさせていく。で、その相対化は、にもかかわらず主に叙述によってなされる。なので作品内での限界というのが主に「クリックの作業を経ないと先に進まない」という部分で生じていて、素材それぞれが結局のとこ途切れ途切れであることに対する解決を意図的に先送りする(読み手の一つに読み繋げようとする「攻略読解の努力」にかなりの部分を委ね、例えば「舞台風の遣り取り」をそれらしく味わおうとするにはそれなりに慎重なマウスクリックが要求される。これは作品自体でもって先に読み進めさせようとする連続性としての「物語」を性質として採用するのではなく目標に掲げてしまったために生じた倒錯だ)。この作品の中で厳密に定義づけられ分類された諸要素について、作品外に持ち出そうとする試みはそれなりに慎重さを要求される。定義づけの前提条件が成立しない場で定義だけが自明視され、「立ち絵」なり「エロ」なりの狭義の定義づけが他作品の解釈に影響をおよぼし表現の幅を狭めかねない。「紙芝居」とだけ述べて終わりにするにあたりForestを引き合いに出すのは、その性質から見て危険性が高い。