古橋秀之『超妹大戦シスマゲドン 1』ファミ通文庫

今、なぜ、妹なのか。
妹萌えは萌えコンテンツ史(18禁PCゲーム史)において、その歴史的役割を終えた。
ツンデレ萌えが萌えの主流としてクローズアップされ、『姉、ちゃんとしようよっ!』のスタッフによる「登場ヒロイン全員ツンデレ」を標榜する『つよきす』が発表された。これは妹萌えの派生である姉萌えから萌えシステムとしての妹性を排除することを目指したものである。すなわち、市場は姉萌えツンデレ萌えに到るまでの変則的ツンデレ形態であったとみなし、その結果として萌えシステムは妹性に依存した状態で成立していた段階を完全に脱却し、次のステージへと進んだのである。ツンデレは萌えにあらざる萌え、旧来の萌えを一掃する上位の萌え概念として捉えられなければならない。
また、2005年夏、妹ゲームの金字塔と呼ばれた『加奈 〜いもうと〜』の作品紹介文をそのまま裏返しにした作品紹介の『さくらむすび』が発表*1され、妹ゲーム側においても改めて萌えシステムから距離を置いた形態への再アプローチが提示された。ソフ倫規定などにより形骸化した近親相姦描写への反発、インセストタブーの主題性の回復の試みはこれまでも幾度となく繰り返されてきたが、システムと強固に結びついた妹萌えを突き崩せずにいた。『さくらむすび』もまた、その妹萌えシステムとの全面対決の姿勢に対し少なからぬプレイヤーから戸惑いや不快が表明されているが、システムの側がもはや妹性を必要としない以上、ここで市場が近親相姦描写のタブー性を再認識しえなければ、妹は残骸として打ち捨てられ、妹は市場から淘汰され消滅していくだろう。
超妹大戦シスマゲドン』は『シスター・プリンセス』によりシステム化された妹の存在を徹底的に浮き彫りにしていく過程において、真の妹とは何か、果たして我々に妹は可能なのかを問いかけ、妹と結びつくことで飛躍的に拡大した萌え文化の総括を試みる問題作である。以下、本作品成立の背景となっている妹文化について解説することで、本作の真相に迫りたい。

萌えと妹

「萌え」はインターネット上の二次元美少女イラスト系、エロゲー・ギャルゲー系、美少女アニメ系コンテンツの普及と共に広がった言葉である。すなわち「萌え」はコミケを起点とせず普及した概念であり、この観点に立てば創作(二次創作含む)を基盤とするコミケから外れた場で擬似コミケ的アイテムを消費する個々人がネットのハイパーリンクの中で共同体を組織化していく過程で見出された、二次創作交換市場ほどは労力をかけず即時性と柔軟性に富んだローコストの枠組みであると規定される。

しかし、このライブハウスでメンバーの名前を叫びまくってバンドの音楽が聴こえなくなるのと同様の消費形式は、コミケ的男性オタク文化が有望な商圏として見出されていく過程で商業的アプローチの一つの手法として次第にクローズアップされていくことになる。そして二次元美少女商品化の長期かつ広範囲の試行錯誤の歴史の中、ついに読者投稿企画で一大ムーブメントを巻き起こした『シスター・プリンセス』がコンシューマーゲーム、深夜TVアニメによってブレイクし、妹物の形式によって「萌え」概念は「積極的にライブハウスに通いつめるコアなファン層」から、「TVや一般雑誌の紹介に反応する一般消費者層」へと輸出されるに到る。当時、萌えオタクを語るにあたりニュース番組で取り上げられたのはメイドでも猫耳でも「葉鍵」でもなく妹であった。*2

「おにいちゃんのことが大好きな妹」は消費者側からのアプローチを事実上ひとつの流れに制御する制度の存在を巧妙にカムフラージュし、一般層が参加するにあたっての敷居を低くする。これを最初から攻略の必要がない安易さを求めたために肉親という形式が用意されたと見なすのは十全ではない。「主人公のことを最初から好いているヒロイン」など妹でなくとも掃いて捨てるほど存在するのだから。ここで要求されたのは「妹を守るおにいちゃん」である。妹はおにいちゃんのことが大好きなのであり、妹にアプローチするため読者/プレイヤー/二次創作作者はおにいちゃんの装いをまとうよう要求される。絵柄でも口癖でも属性でも少しでもフックに引っかかった瞬間に消費者はおにいちゃんになる。おにいちゃんになった以上、妹はおにいちゃんのことが大好きであり、おにいちゃんは自分を好いてくれる妹に応えて妹が大好きである。一方で、女性キャラクターは「おにいちゃんのことが大好きな妹」という関係性の規定以外はそのキャラクター造型を拘束されることがなく、設定の幅が広がるのみならず設定の堀り下げについても制約を受けなくなる。

萌えの臨界点

萌えという感情は現在若年層において当り前のように語られるという話を見かけるが、ニュース番組で驚きをもって迎えられあるいは学者の肩書きを持つ人々が理論化を試みるように、本来であれば非常な困難を伴う。実在しない架空のキャラクターに対し実在しないことを十分に理解しながら見返りを要求できない愛情を注ぎ続けるのだから、コミケの熱狂や同人コミュニティの連帯のような特定の環境が準備されなければならず、なおかつ二次創作への参画まで辿り着かないにしても個々人のそれなりの熱意とリソース投入が要求される。二次元美少女キャラクタービジネスはそうした文脈の存在に注意を払うコストがかさみ、外部からの参入の困難なニッチ市場として認識されてきたが、『シスター・プリンセス』と妹萌えはそうした状況を一挙に前進させたのである。近親相姦のイメージへの倫理的な拒否反応が消費者にロールプレイを要求するコストの高さという側面をカムフラージュし、妹が12人いてみんなおにいちゃんのことが大好きという非現実極まりない設定が近親相姦のイメージからくる倫理的拒否反応より先にインパクトを先行させ現実を参照した想像力の働きを阻害し嫌悪感を和らげる。初見時のインパクトの強烈さ(十中八九は引くだろうが、最初のインパクトなど次第に薄れるものである)をクリアさえすれば、消費者が知らずのうちに架空のキャラクターとの関係性の構築のためのコスト(自発的な思い入れ)を支払ってくれる。ここに、兄妹の関係性を経路とした萌えの商業モデルの構造が確立したのである。この構造を最も端的に表したのが「一人の妹に十二人のお兄ちゃん」という思考モデル*3であることは言うまでもない。

妹とはキャラクターではなくシステムであることを見抜きそれを徹底的に利用してPC18禁ゲームにおける「感動路線」を(韓流ブームより遥かに先駆けて)不動のものとした『加奈 〜いもうと〜』、「おにいちゃんのための妹」ではなく「妹のためのおにいちゃん」を生み出す制度として萌えシステムの土台を築いた『シスター・プリンセス』、これらの成功により萌え概念は大幅に敷居を下げ、広がりを獲得する。しかし、このシステムは消費者に意識して支払う以外の負担を多く強いる。ゲーム作品はプレイヤーに対して架空のヒロインを「救う」ことが出来なかったと糾弾する「鬱ゲー」に至り、収支のアンバランスを察知した消費者は「より軽い」スタイル、労力と見返りの収支の見合った形式を選択しはじめ、見返りの多いエロ重視*4、物語主人公とプレイヤーとの間にそれなりの距離を置いた物語重視形式*5、その複合形などへと移行していく。なお、メタフィクション要素の導入による当事者意識の軽減は物語重視形式の派生とみなすべきだろう。

架空のヒロインへの過剰な思い入れ、人間でないものを人間として扱う態度としての萌えは2001〜02年までには限界に達する。萌えシステムの機能不全を補うため、『シスター・プリンセス』を追いかけるかのような妹物が2002〜03年に数多く投入され制度疲弊著しくなる中、妹物の変形としての姉物が注目される。『姉、ちゃんとしようよっ!』の成功に対し「妹との肉体的な発達の差異」のみで姉萌えを片付けようとする*6べきではない。いわゆる母性的な許容し包み込もうとする態度で主人公に接する姉が海一人であり*7、他の5人の姉は主人公に対し年長者として表面上強気で接しながらHシーンとなると主人公に心を開き、あるいはいいように弄ばれてしまうツンデレキャラクターであり、ゲームの表面上、最もツンデレ的と納得される要芽をHによって倒すのが主人公の目的となっている点も含めて、本作における姉属性への宣言はツンデレへと向かう時代の流れを捉えていたのである。

萌えの終焉

そして時代はツンデレを迎える。ツンデレのツンとは表層観察により判断される人格であり、これは外見上付与される記号によって属性分類される萌えと全く同義である。ツンデレは萌えキャラがシナリオ進行の過程で主人公と次第に仲良くなっていくストーリーテリング全体を指し示し、そのようなヒロインと主人公との間の時間経過による変化をも含めた関係性をキャラクターの人格の総体に含めて語るために開発された用語で、エロゲーやギャルゲーの攻略可能なヒロインのみならず、彼女自身を主人公とする物語を持つ全てのヒロインは原理的にはツンデレと呼ぶことが可能である。*8妹制度でおにいちゃんであることに疲れたプレイヤーは、ヒロインとの近すぎる関係性を放棄しツンツンな距離感を求めるようになるが、完全に離れてしまうとヒロインとのアプローチにプレイヤー各人の個別の手法が要求されることとなり、画一的な感情経路を成立させてきた萌えシステムの崩壊をもたらす。そのために未来において距離が縮まることが保障されたデレとの組み合わせによってツンデレの概念が確立する。妹萌えが過去によって萌えを規定するのに対し、ツンデレは未来によって萌えを規定する。現在のツンデレは非常に近い未来を提示することで成立しているが、消費者が訓練され世相が上向いていけば、最終的にはデレの到来は無限に遠い未来に置くことが可能になる。未来におけるユートピア到来を担保に現在のツンツンを楽しむ態度がツンデレには内包されており、ここにおいてツンデレ萌えは物語との分離が不可能となる。物語から分離された純粋なキャラクター、仮想人格の実現としての萌えのムーブメントは、妹という枠組みの放棄により実質的に終焉を迎えたのである。

総括、シスマゲドンの歴史的意義

これらの妹史を踏まえた上でシスマゲドンの妹について考察すると、ひとつのアイテムの存在に気づく。すなわち妹チョーカーである。チョーカーの存在について、作品内では未だ明確な説明がない。なるほど妹コントローラーから発せられる命令を受信するための装置であるかに見えるが、設定を自由に弄くれることを考えれば妹コントローラーの命令電波を脳に直接受信したって構わないはずである。にも関わらずチョーカーは作品内で章タイトルごとに紹介されるという破格の扱いを受けており、しかも主人公・烏山ソラのチョーカーは未だ公表されていない。もちろん、古橋秀之は無意味な描写にかまける作家ではない。とすれば、これは何を意味するのか。
筆者は以前、妹チョーカーを巡る考察を書いた。http://www.nikkijam.com/logdisp.cgi?user=40042&log=200205&pwd=の5月4日の項目を参照いただきたい。
すなわち、妹チョーカーはヒロインを妹という制度に嵌め込む役割を持つ、妹システムの象徴なのである。しかるにシスマゲドンにおいてチョーカーにより兄の操作を受けることと烏山ソラが妹であることは全く別の事柄として描かれている。そう、ソラはチョーカーによる支配とは全く関係なく妹なのである。もし、妹チョーカーに隠された機能が存在し、それが妹システムを巡るカギとして展開するのであれば、妹の実在こそがそこで問われることになるだろう。その刻こそ、本作が妹システムを超克した妹賛歌、シスターノベルの開幕を告げる妹作品として妹史にその名を刻む瞬間なのである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050930#p7

*2:http://www.ne.jp/asahi/yu-show/sukisuki/200102.htmの2月12〜15日参照。

*3:http://storybook.jp/rst/proxemics.html#0323

*4:はじめてのおるすばん』など

*5:月姫』など

*6:八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ現代書館 P57

*7:しかも海がそのように振舞うことは基本的には禁じられている

*8:実際には落差が明瞭である、ポーズが崩れやすい、普段は強気、といった特長を捉えてツンデレと呼ばれる