続き

このシステムを、私達はよく知っています。「萌える」です。「萌える」は、萌える対象と切り離された自己運動であることは良く知られています。実体と切り離されているにも関わらず実体に接続されていると感じとる感性こそが萌えの動力源です。すなわち、訓練されフォーマット化された感情の励起の一連のシステムを発見し、そのシステムが繋いでいる対象のシンボルとなりうるキャラクター性を発見し、そのキャラクターと背後にある対象を切り離し排除しあう関係にすれば、萌えは作り出すことができます。すなわち「田舎」と「幼なじみ」であり「身体ある女性」と「妹」であります。萌えの優等生である「僕と、僕らの夏」でダムに消える村とダム建設技術者の娘である幼なじみを並べる、これが萌えの一つの理想的パターンです。間違っても、葬式で里帰りしたら地元の役所の役人の娘や地元の商店の娘や地元の神社の娘といったバリバリ土着の幼馴染の女の子が大勢いて彼女らと遊ぼうとするといつも三人ヒロインが一緒に行動してて男性主人公が一人だけオマケみたいにくっついて何処に行ってもハブにされて疎外感を味わうはめになり、会社の飲みの席で野球の話とかに全くついていけずいつも仲間外れの疎外感を味わい一次会だけ出たらそそくさと逃げるようにして帰宅するオタク会社員のトラウマを刺激してシナリオ進めるのが苦痛で苦痛でたまらなくて途中で投げ出してしまうような作りなのにタイトルには「萌」の字が冠されている、これほどまでに「エロゲオタは現実に帰れ」というメッセージを強烈に送りつけてくる作品は他に見たことがない、というサブカルな真似をしてはいけません。そこまでして女の子の人格設定上にトラウマ設定したくないんだったら素直に都会のナンパゲーにしましょう。

だっせんしましたが、赤松健はその作画の無機質性により、エロを書いてはエロと切り離され、萌えを書いては萌えと切り離され、燃えを書いては燃えと切り離される、根源的な意味での優れた萌え作家です。もちろん普通の話を書いてるだけでは単に個性や魅力に欠けるだけですが、そこでエロなシーンが意味を持ちます。