その後の展開

望む方向に流れないので自分でやることにする。

さて、上のリンク先のkelaさんの記述から

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kela/0501.html

しかし、「ひぐらしのなく頃に」においてはこの「関与」はもっと大きな視点で捉える必要があると思う。

ここで、製作者がネット上の掲示板、サイトなどでこの作品に関する議論をどんどんしてくれ、と呼びかけている点に注目したい。
つまりこの作品における「関与」とはゲーム内での選択を意味するのではなく、ネット、同人界、ヲタク社会すべてをフィールドとして「関与」することを含みこんだ概念なのである。

先のサイトでは「推理小説と同じ意味でゲーム」としており、これには私も同意できる。
勝利条件は「真相の解明」である。
先に挙げたゲームの構成要素のうち「偶然」がないが、将棋やパズルのように偶然の要素がないゲームもあるので、これは本質的な問題ではないだろう。

この二種の定義づけが、「ひぐらしのなく頃に」をゲームとして捉える際の枠組みであることが提示されている。
さて、これはゲーム全般に適用していい手法だ。
コンピューターゲームは、プレイヤーがそれをゲームとして遊ぶ上で製作者もしくは製作者の代理人(ゲーム内のボスキャラなど)を対戦相手として仮想する場合と、同じゲームをプレイしている他のプレイヤーを対戦(競争)相手として仮想する場合、この二つを両極とした狭間のプレイスタイルとして捉えられる。この場合の対戦相手というのはある種の馴れ合いめいた関係も含める。真の意味で完全な公正、平等なスタートラインを用意することが実現不可能である以上、妥協は避けられないためだ。というより、コンピューターゲームにおいては両極の対戦者が両立することこそが公正性、平等性の根拠となるだろう。

製作者の作り上げたルールやシステムを極める方向性のゲームプレイと、複数のプレイヤーによるルール内のどんぐりの背比べ的競争参加の方向性の両立を定義付けの根拠とするなら、どちらか片方しか成立しないゲームは存在しない、もしくはゲームとして扱われない。
突っ込んでいけば、RPGやSLG、ビジュアルノベルなどでも上記の条件を当てはめることでゲームとしての評価を導き出すことが出来る。プレイアビリティ、自由度といった概念は同じゲームをプレイしているプレイヤーをより多く集めるための手段と、製作者の対戦相手としての強さ(予想もしない組み合わせに対応できるデザインバランス)の二つに分けて捉える。
さて、ここにおいては、とある二つのゲームが全く同じシステムであった場合、より多くの本数が売れたほうが「良いゲーム」である。プレイヤーの多さは、他のプレイヤーの存在がより身近に実在することのダイレクトな保証になるからだ。また、メーカー側で他のプレイヤーとの交流の場を積極的に応援することは、多くの本数が売れたのと同等の効果を得られる手段である。既存のコミュニティとの親和性の高さも同様。こうして付け加えていくと、コンピューターゲームにおける「優れたゲーム性」は一般商品のマーケティング、販売戦略と見分けのつかない領域へと広がっていく。ブランド名の持つ付加価値が商品の品質と厳密に分けられないのと同様に、有名RPGの知名度はそのゲームとしてのゲーム性と分けられない。