ゲーム、という言い方がよくないのよね。僕らがやってるのは既にゲームじゃなくて「コンピューターゲーム」という別ジャンルなので。

わりと判りやすい古参ゲーマー/ゲーム業界関係者の反応を見かけたので取り上げてつついてみようと思います。

  • ソシャゲとか博打とか。

http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2273.html

「ゲームと博打は決定的に違う」という態度てのは、インベーダーゲームのブームあたりから警察当局とのやり取りを幾重にも経たり、まあ若者の遊び場に置かれる代物ですからね、ゲーム業界的には当初から提唱され続けている、日本のゲームを理解する上で非常に重要な思想であり背景です。

ですが、あくまで、業界の自衛のため、あるいはコンピューターゲームを定義し方向づけるためのテーゼですから、ゲーム業界自体が情報社会の大波に揺さぶられてる現在、風前の灯になりつつある思想です。上記に書かれているような、単純な構図だけであれば、「ゲームと博打は違う」と言えるんでしょうが、現実はそうじゃありません。

なんでか。

まず、従来であれば「お金」に当るものが、今、どんどんと拡大してること。なんせIT革命で情報流通が少し前と比較するのもばからしくなるぐらい増えてる現在、カードのポイントやゲーム内貨幣も準通貨に近しい存在になりつつあることは、言うまでもない。交換しやすい、流通しやすい、てのが通貨の意味ですからね。今のオンラインゲームのゲーム内通貨なりポイントなりデジタルデータなんて、100年前の弱小国家の通貨や、アフリカあたりの内戦状態の国の通貨なんぞより、よほど通貨として機能してる、といえます。このへんは、お金という概念そのものが変わってきている、ぐらいに考えといたほうがいいです。

次に、コンピューターゲームの側が、ソーシャルなり教育なり、どんどん「現実」の側に進出してること。最近だとゲーミフィケーションなんて言い方まで出てきましたが、プレイヤーの行為がゲームプレイの中で全て完結する時代ではなくなりつつあります。僕自身は今いうゲーミフィケーションの効果については懐疑的ですが、ゲームを介したコミュニケーションやゲームを介した様々な活動が現実のコミュニケーションや活動の中に入り込んでいくのは十分あるでしょうし、それがコミュニケーションや活動の質や方向性に影響を与えるであろうことは予想つきます。身体の動かし方ひとつ取っても「ゲーム」を介することで変わってくるってことです。

最後に、やはり、「コンピューターゲーム」は、「ゲーム」そのものとは違うものだ、ということです。

 ジャンケンだってコイントスだって金をかければ面白いんだよ。
 ゲームとして面白いんなら、ゲーセンのパチンコをやってればいい(俺はたまにやってた)。
 賭博と、ゲームの間にはそれだけの差がある。

純然と理念的な意味合いとしての「面白いゲーム」という概念を提唱して、それと賭博はちがう、というわけですが、現実のゲーム業界の出してる諸々のゲームの実体は言うまでもなくリンク先の述べる理想とは違います。

ぶっちゃけ、野球拳のゲームに金を払うんです。なぜなら、女の子のHなCGが見れるから。そして、野球拳のそれを指して「ゲームソフト」と言うんです。ゲーム業界はべつに面白いゲームだけ出して動いてるわけじゃないです。「こんなんゲームじゃない」ものを沢山出して、それもまた、コンピューターゲームというゲームメディアの自由さだよね、と言ってきたんです。裾野はとても広く、その広さが私たちの知るゲーム業界であり、ゲームメディアなんですね。リンク先のいうような「賭博」と殆ど変わらないレベルのゲーム性のゲームなんて、いくらでもあるし、この先、「射幸心」や「換金性」が問題になるのは、そうしたゲームです。モバマスが話題になったのが、いい例ですね。元のアイマス自体、対人の駆け引きがなかったら、どうってことのないミニゲームの寄せ集めです。

まあ、時間も勿体無いのでこのへんでまとめますと、僕らの知るゲーム業界は元から「ゲーム」としてはグレーゾーンだったし、そのグレーなところが「現実」と交差したとき、「ゲーム内限定」だったはずの諸々が、一気に堰をきって擬似通貨のように振る舞いはじめ、その擬似通貨が二アリーイコール通貨となる可能性は、けして否定できない(というか、既にそうなりつつある)、という今後の状況を、ゲーム業界やゲーマーの人たちはもっと意識して欲しいなあ、という話でした。

(続き)
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120430