SSSS.GRIDMAN

いい歳をした大人がいつまで経っても子供向け番組を見続ける。いろいろと理屈をこねながら見続ける一方で子供向けであるがゆえのお約束やお約束から来る限界を見ないふりしてスルーし続けることになる。そのうち最も大きな問題が子供向けの道徳説教の枠組みで、子供の教育の観点から作品内で強いメッセージを提示されるが、大人たちは作中メッセージの吟味を都合よくスルーすることで子供向け番組を見続けることができるようになっている。ぶっちゃけ作中メッセージの大半は見慣れた、目新しくもない内容なので毎回気にしたりはしないし、ときどき少しばかり「大人の視線」が混ざると「子供向けなのに偉い」みたいな高評価を得られたりする。時代劇のチャンバラで殺人の是非を問うのが野暮なように子供向け番組内の子供の教育の観点の倫理的メッセージはフォーマット上のお約束でしかなく、ときどきお約束をちょこっと破ってみせると「うおおリアルだ」と盛り上がるというのがガキ向け番組をよいしょする大人たちの作法だ。

グリッドマンのアニメで心をうたれるのは、まさにそういう子供向け番組をいい歳をしていつまでたってもつまみ食いし続ける大人たちの居座った態度を蹴飛ばしてたからだ。作品の枠組みがグリッドマンの再構築ではなく旧作グリッドマンから地続きのものとして用意され、グリッドマンが作品としてお説教をするのは子供相手ではない。若いころにグリッドマンを見て、そしていまだに子供向け番組をなんだかんだと理屈をこねながら見続けている大人たちの今の姿に対するものだ。子供向け説教タイムはお約束だからとメッセージをフォーマットとしてスルーする態度を許さず、倫理的なお説教から距離を置こうとする大人たちをあらためてメッセージの前に立たせて、真正面からお説教し、問いただしている。作画や美少女を消費して終わりにしたい大人からすれば面倒な対応を要求されるのだから戸惑いも多かったと記憶している。

作画を語り演技を語り演出を語りたい、子供向けメッセージは「お約束」なのだから読み飛ばしていい。そうした評価態度を積み上げてきた延長に「作画はいいがモノとしてはマルチ商法の道具でしかない映画」を扱いかねて困惑するしかない現状がある。ならせめて子供向け番組を見て語るならその倫理的お説教の内容まで含めて語る経験を一から積み上げていくべきなのだろう。もしもそれが苦痛なのなら、そもそも子供向け番組を作画スゴイというオタク語りのためだけに語るべきなのか。視聴するだけならば責任は発生しないかもしれないが語るならば語った先が問われることになる。

マルチ商法を排除できない我々の作画語りに責任はなかったのか。オタクメディアの自己総括にそのぐらいはあってもよさそうなものなのだが。