よーやくカウンター落ち着いたか

あずまんが三国志
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1067261

 流行の三国志プレイ記録動画でも見て楽しめる方向に特化してるタイプ。このあたりの三国志動画はプレイ前にプレイ動画の大まかなストーリーラインを決めた上で展開をランダム要素に委ねてて、ここまでくると昔のTRPGのリプレイ小説のノリに近い。RPGリプレイとの対比で面白いのはプレイヤーがゲームマスター役でコンピューター側がプレイヤーキャラクター役という逆転の構図になってる点だろうか。

 西尾維新を20年前の田中芳樹の位置づけになぞらえてみせる人を幾人かみかけたが、確かにまあ、同じといえば同じではある。『銀河英雄伝説』の「未来史をさらに未来の視点から後世の歴史家が語る」てなスペオペ歴史小説の合成の文章水増しというか迂遠というかもってまわった枕詞の感覚は、自意識語りと反自意識構造の推理小説薀蓄語りの合成とまんま被る。銀英伝が中国産SFに影響を与えまくってるというニュースを見かけたときは苦笑したけど、割と国境を越えて同時代的な感覚で通じてるのかもしれない。

 海外市場を睨んだときに「三国志」を題材にしたゲームは今後作りづらくなっていくかもしれないなどと聞くと、むしろ上のプレイ動画のような形を切り口にゲーム的な記述による歴史叙述を「歴史」の中に組み入れる努力をすればいいと思いもする。巷間の歴史小説・コミック・ドラマ等を見ないふりするぐらいなら、司馬史観コーエー史観なりセガ史観なりを正面からぶつけていけばいい。かつて講談師は歴史を語り継ぐ語り部を自認していたのだから、パラメーター数値によって語られ蜀の劉備あずまんがのともやSOS団ハルヒが中華統一する歴史の根拠を僕たちが語るべきなのだろう。コトバ的には歴史とは言い難いかもしれないが、それを言ったらどうせ現代の史学なんて成り立たないのだし。

 あずまんがキャラのいる三国志を歴史と呼ぶ、キャラクターという単位を解釈基準とした理解とはそういうもののはずだ。今までだって子供向けにドラえもんやコナン君をナビゲーターとして歴史紹介したりしてたのだし、それを稚拙だ幼稚だと排除する根拠など誰も持ってない。