かみちゅ!(12話ぶん)

 実際の田舎が舞台のアニメとゆー括りで見た場合、けっこうな率で東京やら沖縄やら遠出してるのが他との違い。背景美術が頑張ってるからといって、尾道らしき土地に、あんまし縛られない。

 出かける理由は神様だからなんだけど、んで、元からいる地元の神社の神様である八島様で「ここから出ていきたい」とゆー話を作ってるのと対比したとき、おそらく、それなりに意識はした上でもって、田舎アニメじゃないようにしてるんだろう。

 女の子が神様というのは、ギャルゲマ的には割と簡単に納得いく論理的帰結で、それ自体はなるほどなーという感じなんだけども、それで実際に女の子が神様になったとき土地に縛られる必要がなくなる、というのがこの場合は大事だったりする。なんで神様なのかっていったら、それはたぶん、田舎町に住んでる土着感とくっついてるんだけど、逆にいや、それ以上の意味はない。つまり、女の子が神様であることと女の子が田舎に住んでることの二つが互いにくっつくことで、それぞれ単体であれば女の子を束縛してしまうだろう意味合いが互いの要素を吸い寄せて結びつき、女の子自体は両者から解放されて自由になる。これが素晴らしい。

 いや、ホントはね、立ち絵と背景って、組み合わせで成立してたはずでさ。背景だけ取り上げてクローズアップしても、立ち絵だけ取り上げて小細工を積み上げても、しょうがないんだよね。立ち絵だけ頑張っても固い動きでしかない、背景美術を張り切りすぎた果てに立ち絵を取り込んだ3次元構図みたいのを作っても同じく。

 時代の位置づけも、なんつーか、いわゆる「懐かしい未来」の反対側ぐらいの時代設定で、「かつて、確かにあったことを知っている過去」で。これたぶん、現在だとパラレルワールドになっちゃうのね。そうじゃなく、神様達も、もののけ達も、俺らの今に対する異世界としてのパラレルな現在ではない、確かに俺らの生きている世界であるところの過去。だから、実在の手触りがきちんと女の子と結びついてて、それゆえに自由。