あー。まあ。なんか老害的に。

まきこまれちゃったかな、ということで、言い訳っぽいことを書きますよ。

んーと。
まず、昔のBGMに対する信仰というか、評価の高さというか、価値判断基準が、今と比較になんないほど高かったことについて。
いや本当にね。これは考慮に入れておいて欲しいと思います。
ゲーム音源が貧しかった、映像表現もドット絵や荒いポリゴンでずっと過ごしてた人が多かった、そゆこととも関係してるんだけど、そんだけにBGMへの思い入れは半端じゃないです。
これはエロゲもコンシューマーも関係なく。

BGMを、いい音ならすために、CDから直接BGM流すのが喜ばれてたわけです。「gM」って雑誌が、アダルトゲーム特集を組むときに「ノベルゲームの条件」として、4項目の条件の中に、BGMを必須項目にあげてたりするわけです。立ち絵がどーとかこーとか言い出す前の話です。ネットレビューもBGMを語っとかないとダメっつーやつです。

このへん、BGMの位置づけの、現在における相対的な低下とゆーのは、知っておいて欲しいなと思います。

あと、喘ぎ声が背景音化するのが当たり前だったり、そもそも台詞の長さがすごい、といった変化も気にしてほしいなあ、とか。そりゃ、「SWAN SONG」ぐらい地の文が多くて台詞はコンパクトだったら、音声がBGMを邪魔してるとか言いませんよ。

つぎ。
プレイヤーの操作する度合いが、昔と今だとダンチですよね。
つまり、ヒロインにプレイヤーがチョッカイを出す、というのと、演出との兼ね合いというのが、あります。
たとえば、同じ立ち絵の変化でも、
・「プレイヤーがクリックした結果として変化する」
・「プレイヤーが触らなくても、勝手にめまぐるしく変化する」
のには、プレイの実感として、差があります。ありました。

最近出た、さわやか「僕たちのゲーム史」というのがありますが、そこで、ノベルゲームをゲームの視野に収めてる兼ね合いもあるんでしょうけど、「ボタン押して反応すること」というふうにゲームの定義を立てようとしています。実際にはそれだけじゃ足りなくて、本当は「プレイヤーのコントローラー操作に対し、ダイレクトに反応すること」と、「反応を期待して操作したのに、期待どおりの反応がえられないこと(ゲームオーバー等も含め)」、その両方をプレイヤーが操作の正当な結果として受け入れること、というレベルまでは最低でも話を掘り下げないといけない(たとえばiPhoneiPadの開発においての重要なデザインに、横スクロールが行き止まりになったときスクロール操作して失敗したときの画面の反応というのがあって、たしかサムスンとの裁判でもあげられてたと思うんですが、「操作したけどうまくいかない」というのが超重要なんです。なぜなら、実体のない画面内とプレイヤーの操作が連携してることを示すには、操作しても連携しないという要素もまた画面内に取り込まないといけないからです)んですけども、それはさておき、プレイヤーの操作と画面内の変化が連動してるかどうかというのが重要である、てのが、昔はたくさんありまして。
んで、立ち絵芝居の問題というのも、音声の問題も、そこに関わってこないと、意味づけが違ってきてしまう。
クリックしないと立ち絵は変化しないし、選択肢を選ばないと音声しゃべらないし、という時代から、操作しなくても立ち絵がオートで一通りの変化を見せるようになりましたし、音声はどんどん長くなっていき、プレイヤーがキーに触る時間は減りました。ボタン押すと音声がカットされちゃいますから触れません、ぐらいになります。会話も、プレイヤーの代理としてのPCとの対話は相対的に減って、NPC同士で会話を交わす率が高くなります。つうかゲームによってはPC主人公が誰であるかプレイヤーはどこに位置づけられるのか明確に定義されてすらいない、選択肢の主体は幾人にも割り振られ、プレイヤーはほとんど傍観者、みたいのもありますよね、いま。
過去のゲームを引き合いに出すときは、そういうのと複合で見てほしいと思います。老害的に。

あと追記。
「萌え」の熱量が、なんかおかしかったです、昔。たぶん理解されないぐらいに。
コミュニティやネットでの変化が大きいと思います。今は同好の士を見つけやすくなったりしてて、そんなに声高に萌え萌え言わなくてもよくなってて。
大声を出さないと、すごい熱量を高めて外に出力しないといけなかった時代だったんだと思います。それに要するための思い入れの量も、ちょっと異常なくらいじゃないと追いつかなかったわけで。
知るかそんなの、ということでしたら、そんなもんがなくなってよかった、と思っとけばいいんじゃないかしら。

  • さらに追記。

http://workturezure.blog78.fc2.com/blog-entry-1323.html

プレイヤーの入力と画面演出の兼ね合いというのは、画面をどう作るかを考えるときの基本に関わってきます。FPSの視界で映画作るとホラー映画みたいだ、といった話があったように、プレイヤーが操作し入力するためには、画面がある程度は固定されてないと、操作に支障をきたします。3Dで敵をうまく視界に捉えられないために一方的に攻撃されるようなゲームを想起してください。逆に、映画は画面構図は特定の意図がなければ固定しないで目的にあわせて自由にアングルを変えます。このことは、プレイヤーが介入しない、クリックとつながらないのに、いつまでも固定した視点であり続けることが、つまりノベルゲームの典型的な「書き割り背景の前に立ち絵が配置される」構図だけで全てを済ませようとすることが、より不自然に感じられていく、という流れに繋がります。それは結果的に画面構成のための素材の増加を促し、労力は飛躍的に増え、いくらツールで補っても追いつかず、冒険的な企画よりも無難な企画へと流れやすくなる状況を促し、硬直化へと事態は進行していきます。
では昔、元長柾木が提案して、一部が乗っかったように舞台劇とノベルゲームの画面をなぞらえる視点を導入しうるかといいますと、生身の人間と、多くてせいぜい数十パターンの変化の中でしか「演技」できない「絵」であるような立ち絵とでは、およそ受け取り方が全く異なってきてしまう。こちらも無理があります。
ではどうするかという話ですが、例えば、よく引き合いに出される「Forest」、音声とテキストの多重露出が取り上げられがちですが、画面構成で見た場合に、「背景の中に立ち絵が立っている」という構図を全廃棄しているほうに注目してみる、という考え方があります。つまりレイヤーで重ねあわされているけれども立体的な(映像カメラアングル的な)構図で考えられたのではなく、異なる性質の情報を幾重にも重ねることで効果を出す画面構成。音声とテキストのそれぞれ異なる内容が多重に進行する形も、この画面構成の多重性と繋げて考える、つまり、まったく異なる質の情報を幾重にも重ねることが可能であることに注目してみる、といった話もあります。それが可能なのは、映画や音楽のように、ただ一方的に情報が押し流されていくような媒体ではなく、漫画や絵画のように、受け手が自分のペースで受け取れる媒体に近いからではないか、というふうに考えることもできる。
ものの考えかたは、いくらでもあるということです。

  • さらにさらに追記(H24.12.16)

老害と銘打ってるので、もうちっと老害っぽく。
演出論とかの評価の方向が、だんだん射程が短くなってるなあ、というのは感じます。
昔は、ゲームって、というかデジタル素材を使った作品て、荒いドットとFM音源に代表される、限られたリソースでどんだけの表現ができるのか、てのがあってですね。その中で映画やアニメの美麗な表現を目指すてのは、明快な目標たりえたんですけども、今はもう、映像としても音としても、素人が見て十分すぎるぐらいに美しくなってると。むしろCGの流麗な線を、アニメ化で動かすのは難しいから、アニメのキャラデザにリファインするときは線の数を少なくしたりと、一種のデチューンを行わないといけないぐらいになった。
なのにね、いまだに、演出論とかネットで書いてる人たちの指標が、「アニメや映画を追い越そう」じゃなくて「アニメや映画に追いつこう」のままなんですよ。アニメでは出来ない独自の表現手段を発見しよう、とならなくてね。
そのほうが文章で書くのが楽、というのはあります。映画やアニメだったら、映像表現を説明する言葉は既に開拓されて豊富だから。
でも、評論や批評を書く人が楽をするために、ゲーム表現の発展を褒めるというのは、本末転倒だよね。
バカでも若書きでもいいから、「映画やアニメや漫画にはない」何か新しいものを見つけて欲しいと思います。その際に、既存の評論家に頼るのも、彼らは単に自分たちの専門の単語を安易に持ってきているだけなので、避けていただくと有難い。
あとまあ、「この手法は、本当にこれで最適なのか」と検証して欲しいよなーと。発見しました終わりじゃなくて、「これで本当に映画を超えたのか」と真剣に悩んでみてくれたら、いいんじゃないかなあ。
上を本気でやろうと思うと、かなり苦しむと思いますが、頑張ってください。