プレイヤーとレイヤー(コスプレと関係ないほう)

 線に対して、手前と奥とに重なっていることは私になる。ここでの私は個ではなくて視聴者、行為者であったりするような「私」のことで、だからゲーム性としてプレイヤーの存在をただ画面から導くにあたってレイヤー表現が最適な形として最終的に見出されたのだろう。

 一応念のため、遠近法表現は単に絵画の技術の中の制度であって物の真実の姿でもないし人間の視覚に忠実なわけでもないのは偉い学者先生がとっくに言ってることで、手前と奥との重なり方を遠近法に従わせる必要はない(そうでなければ文章表示のウィンドウなどどこにも置けない)。背景がなぜ遠近法に従って描かれているかといえば、画面全体を重なりの組み合わせとして作るにあたり、人物画像が無地のカンバスの上に描かれた絵であるような捉えられ方を避けなければならなかった、つまりキャラクターを浮き上がらせるためだったと考えておけば事足りる。

 大事なのは画面の重なりが作り出すプレイヤーという概念が個に縛られていないことで、だから個人としての義務感や責任感、共感をそこに突っ込むのは無理がある。ササキバラ・ゴウの不用意な記事に代表される「他のメディアと比較してゲームではプレイヤーがより強く感情移入するからそれを生かした表現が可能になる」という根拠のない前提での物言いのせいで、主人公を三角関係の修羅場に置いたり人が殺しあったりする殺人の責任を問われる境遇に置いたりといった安易なプロットが考えなしにやたら正当化されたものだが、ゲームにより強く没頭するのはゲームが楽しいから(大したリスクもなく女の子とイチャイチャできる優秀な費用対効果があるから)であって、辛くて不快な境遇に対しては通常のドラマを享受するのと同程度に心の中で構えて対処するに決まってる。心のガードをまるきり解いたままで不快なシチュを突きつけられれば拒絶反応を起こすのも当たり前。

 ゲームにおいては「個人であるような私」を思考の基準とする必要は全くなく、むしろ個であることと私であることを分けて考えなければならなかったのだが。