ゲーム、という不幸

 ゲームを定義するのは難しい。ゲームを見出すのは難しい。何だってゲームといえるし、何だって遊びと言える。

 だがそこで開き直った場合、表現の自由なるものはゲームに適用可能なのか? あっさりとゲーム表現と言ってしまうけれども、では一体、どのような部分を指して表現といえるのか、そのあたりは曖昧なままだ。それなのに表現の自由なんて主張できるのか? それでは、中身のない箱を中身があるように振舞っているだけと言われても、反論はできない。

 そのへんの問いが、丸ごと抜け落ちてる。

 例えば、分岐していくシナリオにしても幾つもの結末のうち、それぞれのプレイヤーがそれぞれに好みの結末にたどり着く。一つの結末は文学的であると評価され、一つの結末はポルノとして性欲解消に役立ち、一つの結末は二次創作に向いた幅を持たせた緩やかな展開で、一つの結末は判りやすい勧善懲悪の図式にはめ込まれている。そういうふうに、互いの方向性を混ぜ合わせることなく同居させられるのが、マルチシナリオの強みだろう。あるいは、幾つもの結末のうち、客受けするものも悪いものも、当たりもハズレも、どちらがいいか決めないで一緒に突っ込んでおけば、客が自分で好みの展開を見出して評価してくれる。(「数撃てば当たる」が、最大の強みなのかもしれない)

 いったい、どの部分が表現なのか。全てが一体となって表現たりえているというなら、プレイヤーは全てが一体となったような受け止め方をしているのか? どちらかといえば、特定の自分の気に入った結末を真のエンディングとみなして、そこだけを深読みする(あるいは全体の構成が気に入らなくても一部の表現手法に快を求めるのも日常的に流通している)のではないのか。それ以外の結末は、彼にとって最終的に不要となるだろう。すると上の例では四分の三の結末においてポルノ描写がなくても困らない。ポルノ描写の有無は、他の展開においては影響を与えないのだから。

 小説にしたところで、いくら「前後の文脈や全体の構成からみても、これは<わいせつ>ではない」などと述べたところで、では実際に読者全員が前後の文脈や全体の構成に注意を払うかといえばそんなことはない。というよりも、チャタレイ夫人の一部を抜き出してわいせつとみなし規制をかけた当時の当局者たちもまた、大きな意味では読者の一人に他ならない。彼らの「読解」が大衆より劣っており採るに値しないとみなせるほど、規制反対者が不平等主義者というわけでもない。