追記

 今回、

>何のことかと言うと、妹ルートに入ると突然、この妹が実は義妹だったという事実が語られるのである。無論それは或る種の作品外的な事情によるものだが、妹ルートに於てのみ妹が義妹に「なる」、と言っても可い。
>つまりこのような凡庸な作品にあって既に、一のルートを選ぶと他のルートの意味が(プレイヤーにとって)変ってしまうという、可能世界論的・多世界解釈的議論を許容するギャルゲーの特質は余すところなく明らかなのである。
/astazapote

と述べ、次に

>とここまで書いて「クリプキ ヒトラー Kanon」で検索するが望む結果が得られない。

と発言する林さんのそれに対し、「クリプキ ヒトラー Sister Princess」で検索してみては、といったツイートがなされた形跡がない。

 シスプリのゲームが「プレイヤーの選択によって血縁と非血縁の二つの結末がある」ことについて、当時、あれだけ大きな反響があったにも関わらず、ほぼ誰も連想していない。

 つまり、誰においても、普段はそんなことはどうでもいい。にもかかわらず「Kanon」が素材として取り上げられたのは、ぶっちゃけ、作中で登場人物の一人がそうした趣旨に受け取れる発言をしたからに他ならない。

 Kanonの作中においては、それらの発言は全体の構成の中で一定の位置づけを与えられ、それが作外にはみ出すような無様な真似は晒していない。にも関わらず、その発言を極端な形で取り立てて問題視しなければならなかった人たちの事情が存在する。はじめたのは東大生のくせに東大生と言われると怒り出す一つ分捩れたコンプレックス持ちで、彼においてはコンプレックスへの対応策としてネットで釣って叩きたい事情、つまり自身の絶対性を、ネットという安全な発言の場で確保しなければならない精神的な問題があった。そのために、文脈的に全く安全であることが第一に確保されている、フィクションの登場人物の状況についてのフィクションの登場人物の発言を取り上げ、それに反応するコンプレックス持ちを発見しようとした。まず、そうした発言当事者の個人的事情を考える必要がある。

 次に、それを受け継がなければならなかった事情について、シスプリが全く話題に上らなかったことが対比される。直接的には「問題提起」もまた、対比検証が出来ない層においてのみ機能する問いであるから、となるだろう。