「追記 (2005/08/22)」への反論

 
 
 
以下、シンフォニック=レインのネタバレ。
 
id:genesis:20050821:p1への。

ゲームシステム(ゲーム性)が重要な役割を果たしているという点

いや、果たしてない。というか、ゲーム性を排除することが主眼に置かれている構成を、「ゲームシステムが重要な役割を果たしている」と言っていいの? と問いたい。
こういう話をするとしばしば「ゲーム性」とはどのように定義されるのか? という話になって、泥沼化するんだけどね。私が使うゲーム性てのは、そのゲームを律してるルールや条件にある程度の複雑さがあって、最低でも何回かプレイしないと法則性が見えてこないような、そしてその対応に多少の思考や練習を必要とするような、いわゆるところのゲーム性です。それ以上に突っ込んで話す気は、今のところない。

〈ゲームという表現〉が〈ゲームにしかできない〉ものを模索した末,〈プレイヤーの中で収束する物語〉として『シンフォニック=レイン』が奏でられた。これは,聴衆を必要とする交響曲

私は「ゲームという表現」てのは何か、については割と普通の意見の持ち主です。ゲームをやりこむ、研究する、練習する、そうやってくと、そのうちに何かが見えてくる。体得的なもの、このタイミングでAボタンと左レバーで2段ジャンプ成功、無意識に身体が動く、先を読む。堅い言い方をするなら、特定の条件下での最適解を求めたり、その解答が得られるための特定条件を発見したりする、そんなの。
で、それは表現なのか、と言われると、うん、と答える。他の情報との組み合わせにおいて、それはプレイヤーに新しい視座を与えてくれる。手近な例だとこーゆーの。

「言い換えると、僕は核家族に生まれてそれなりに個人主義的に育てられましたから、かつて世に存在したという長子と次男坊たちの愛憎とか、親の決めた許婚とかがどんなものなのか知らない。そうした長子相続制、封建的家族制度というやつは、物語を見聞きしていると時々、打ち倒されるべき障害として出てくるけれど、いったいなんなんだかどうもピンとこない、こなかった。しかし、俺屍で直系主義をやると、そうした事象を生み出す"家督の思考"の一端が味わえるんです。直系のエースに投資を集中して、高額な配偶相手をさがしてきて…そのほうが強いんだから。そういう思考の流れは、ゲーマーとして容易に理解できる。そういう思考を持てて、そういう経験を体験できる。だから、一種のタイムマシンですね。」
「なるほど? あの古風な話に出てくるような、水呑み書生の馬の骨に娘はやれんと大喝する資産家のおじさんとか、嫡子に市井の野良猫娘と駆け落ちされて激怒する旧家のおばあさんとかか」
「そうそう。ああいう人の気持ちって、なってみたいと思いません?」
id:ityou:20050707

id:tdaidouji:20050704#p1でやりたかった話は、ようするに上のような話でした。特定のアルゴリズムに乗っかって、その足場から状況を見渡せるようになる。
一方で、一般に「表現」て言われるのは、そういう論理や法則みたいのを排除した、出力結果だけを取り上げたものとして考えられます。詩や小説なら言葉の意味する論理性よりもリズムや文字の見た目を大きく取り上げてみたり、絵なら描かれてる人物の名前や経歴よりも色使いや構図を重要視してみたり。
もちろんどちらも、純粋に法則だけ、純粋に出力だけ、というのは存在しなくて、法則9割出力1割の立場で評価したり(勝ち方が美しくない、美学に反する)、法則1割出力9割の視点で賞賛したり(お約束に縛られない斬新な演出だ)するわけですけど。
で。
こういうの、<ゲーム表現>という言い方が混乱の原因かなと、時々は思うんですけどね。

〈ゲームという表現〉が〈ゲームにしかできない〉ものを模索した末,〈プレイヤーの中で収束する物語〉として『シンフォニック=レイン』が奏でられた。

音楽演奏ゲームとしてならば、上の言葉には賛成します。繰り返し演奏していく過程で得られるリズムや音に同調し同期していく感覚が、卒業演奏の一点において、シナリオで描かれる情景との同化をもたらす。
でも、シナリオだけを取り上げるなら、<ゲームという表現>という言葉には全く賛成しない。
id:tdaidouji:20050616#p1で書いたように、シナリオ構成において試行錯誤は排除されているし、また、「 al fine 」における謎解きも、そのまま「 da capo 」の真相暴露だとは私は見なさない。いわゆるトゥルーエンド扱いとなるであろう「 al fine 」の一方のシナリオが「 da capo 」のトルタエンドと異なる展開となり、また一方のシナリオ展開でトルタエンドと同じ展開になるよう選択した場合、トルタエンドの一般的な読者の想像力のおよぶ範囲内の意味づけ(トルタの名前を呼んだから、トルタが帰ってきてくれた)を裏切るのは何故か。私はそれを、シナリオレベルでのプレイヤーによる推理や意味づけ、広い範囲でのゲーム的な行為を排除するためと考える。別の言い方をするなら「 al fine 」は謎解きを披露するためでなく、「 da capo 」のシナリオの展開の必要上、生じてしまった「謎」という消化不良要素をプレイヤーの頭から必要最低限だけ追い出しつつ、プレイヤーがシナリオレベルで自己完結するのを避けるために要請されたのだ。プレイヤーの中で収束するのではない。プレイヤーの中で収まりきらないからこそ、この場合は歌を見出す。別に歌じゃなく「信仰」でも構わないが、信仰は人の心の中だけの話じゃないといった話がシナリオ内でクリスマス、じゃなかったナターレの描写でなかったか? 同様に、教会での聖歌の合唱についてもそれなりの記述が割かれていたことにも注意しておいて欲しい。
長くなったが、SRはシナリオだけを抜き出してみれば単なる「ノベル」である。別に、「ゲームにしか出来ないこと」はやっていない。むしろ、「ゲームには出来ないこと」をやっていると見るべきだろう。最適解も法則性もなく、ただ表層の記述だけがあるというのは、小説ではごくごく普通のことのはずだ。だから「SRはミステリじゃない」id:tdaidouji:20050720#p1と書いた。