社会的である個人という連中

 言論弾圧といったって、じゃあ現在、言いたいことを自由に言えるかといえば、見えない世間様の圧力で、ろくすっぽ言いたいこともいえないのが現実だ。良識的態度、政治的正しさとやらで、ある程度まで社会的な行動規範を獲得してしまえば、奥歯にモノの挟まった発言に終始するしかない。他人を名指しでDISるのはお行儀がよくない、大卒予定者との面接で非定型句を駆使した俳句を披露するのは自己満足度が過ぎやしないかよく自重して考えろ、といった条項のひとつ下に、非実在青少年の性描写は控えめに、という一文が付け加えられるだけのこと。慣れればそれで終わる。それに慣れたくないというのなら、せいぜい、せせこましく反逆してみせればいい。何の意味もないが。

 何もかもを全部まとめて「言論の自由」の中に押し込めてしまうのは、エロゲのユーザーなり作り手なりが、自分の手で腑分けることを望まない側面も大きいのではないか。腑分けた結果、細分化され効率化されればコミュニティも市場も散逸していき、再編を免れ得ない。マルチエンディングの4つの結末のそれぞれに分かれるなら、それぞれが1/4の市場になる。ならば、お上からへこまされて全体の市場の2割減程度におさまるほうが、まだ、うまみが残るではないか。50万人のコミケが40万人になるのと、12万人の4つの即売会に分裂するのとでは、40万人が集まるほうを選択するだろう。その際、10万人の弾かれた方々(もちろん、もっと細かく散逸することを宿命付けられた人たちだ)には、泥を被ってもらえばよろしい。

 俺には、いま、「表現の自由」を標榜し、ただそれだけを念仏教のごとく唱えている連中が、10万人を切り捨てる決断を暗黙のうちに下した40万人に見える。もちろん、児童保護を標榜し数十億人の理性とやらを代表する人たちがバーチャルポルノの愛好者を切り捨てる決断を下したのと、全く同じ入れ子の構造だ。「児童保護」の題目が「表現の自由」に入れ替わっただけ。児童保護の目的から大きく外れているじゃないかという指摘にしたところで、ロリの性行為を書くのが「表現の自由」の主目的なのか? というズレと同じ。エロマンガやエロゲの市場保護のために動くのなら、その労力をもっと他の、深刻な人権問題の報道に向けるべきじゃないのか、となる。

 いったい、あの連中は「表現の自由」なる言葉を個人の言葉として発しているのだろうか。ただ言わされているだけじゃないのか。そのような言葉は、一体、表現や言論の名に値するのだろうか?