ついで

 そろそろ大きなお世話になりつつあるけど。

 いちおー、「歴史」が整備されんのはアイデンティティやレゾンデートルを追い求めて見出される、ていう。歴史が先行することはないとゆーか。今ちょうど猫猫先生がクネクネ踊ってる「ルネサンス」て言葉にしてもイタリアルネサンスっての自体が国民国家アイデンティティの形成との関連性で漸進的な流れでなくて突発的なイベント扱いで「発見」されました、みたいな話と結びついてるとか、なんかそーゆー。

 んでメイドさん

水月』は一応は伝奇の形をとってて。んで伝奇であることを拒絶する。プレイヤーが選択肢を追いかけてくと、那波のとこでは記紀神話を追いかけたり、香月姉妹の話では「こないだの戦争」について語ったり、幼馴染の神社の娘を追いかけると神社に祀られている神格を国家神道に接続してく話が出てきたり、眼鏡っ子だと海底神殿と戦後列島改造っぽい話になったりして、まぁつまり、自分たちの住んでいる場所についての過去をそれぞれ選べる。それらは互いを打ち消しあい、あるいは参照しあう、彼女らそれぞれ存在の根拠で。

 で。雪さんの話は、某柳田民俗学の「なかったこと」になっちゃったアレの話(に良く似た主人公の父親個人の仮説)に結びつこうとする。けども、そこには真実は見出されようとしない。

 ヒロインの過去にあった真実を知ることでヒロインの抱える問題を解決するのがギャルゲーの基本フォーマット。では、ヒロインの来歴が、私たちの住む世界の根拠において否定され虚構に追いやられた過去だったとしたら。

 メイドである雪さんの、その来歴を辿ろうとしたとき、その先には史実に紛れ込みうる武士道も、人跡未踏のメイドの国もない。

 じゃあ、そんな雪さんのことを、私は、私たちは、認めることができるのかな。とゆー。

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 萌えの多義性てゆか、歴史的変遷と多分にワンセットの話として捉えるべきかと。

 ヒキョーな物言いを承知で。90年代のギャルゲーは、とても美少女と言い難い『ときメモ』のキャラクターデザインに考えられないほど入れ込む、つまり対象が「萌えキャラ」じゃなくても萌える、のが共通の了解事項としてあって。だから「恋愛」という言葉がしっくりきた。今は初代『ときメモ』のキャラデザを指して「萌えキャラ」なデザインとはあまり言わない。「萌える」と「萌え」の差。