ぐだぐだとよく知りもしない遠い国のネタをひっぱる

 イスラエルのアニメのはなしの続き。

>ここで描かれるパレスチナ人、レバノン人には、「バシール」というファランジストの指導者以外、固有名詞も“顔”もない
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20081207.html

>『Z32』の場合、この『戦場でワルツを』以上に“相手側”のパレスチナ人”の顔、存在が見えない。
>「実際、占領地での兵士たちには、パレスチナ人という相手側の“人間の顔と姿”が見えていない。それが現実だ。その現実をあのシーンは象徴的に示している」と答えた。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20091015.html

 どうも「戦場でワルツを」だけの話じゃなく、なんか奇妙なことになってるようで。
 もしかすると、上引用の「イスラエル兵士にはパレスチナ人の顔と姿が見えていない」というドキュメンタリーの監督の映画解説は、ごく近い映像体験だけに依拠してるんじゃないか。

>その内容を「暴力を否定し人間愛を訴える反戦映画」といった要約で済ますことはできない。というのも、この作品では不思議なことに、敵兵が現れない。
http://jokigen.jp/archives/2002/03/post.html

>ここには加害者はどこにもいない。だれとだれが戦っているかはほとんど問題にならず、ひたすら犠牲者だけが映し出される。「敵」の名前さえ明示されることはない。ここでのワンショット=ワンシークウェンスという形式は、敵と味方といった安直な二元論を回避するための、文字どおり倫理的な選択なのである。
http://www7.plala.or.jp/cine_journal/review/kippour.html

「キプールの記憶」を語る言葉。後続のイスラエルの映像作家があっさりとその映像体験に乗っかったまま「ドキュメンタリー」を作っているとしたら。ただしキプールは徹頭徹尾説明がない。

>断続的に響く爆発音と土煙りのなかで、まるで地を這う巨大なゴキブリのように砂漠を右往左往するだけの戦車
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/furuya/020205.html

>轍が縦横に走っているだだっぴろい砂地を、何台もの戦車がランダムに動き回っている戦場の様子は、それだけでも鮮烈である。これだけ多くの戦車を、これだけ意味なく配置して撮った映画を私はいままで見た記憶がない。
>本作の戦車はほとんどの場合、何をしているのか、何をしようとしているのがまったくわからないのだ。
http://www.ywad.com/movies/847.html