続き

「キプールの記憶」自体は、戦場なのに戦闘する兵士のいなさ加減が、巨大な違和感としてゴロリと転がされてて、その欠落から目を逸らすのは不可能な作りだった。一方の「戦場でワルツを」のほうは、少年兵士が攻撃してくるのを描写してたり、いろいろどっちつかずだ。で、どっちつかずというのは、個人的独白にみえて、実際には個人の意思や判断を放棄して「現実」(つまりは監督自身の解釈を経由しない現実なので、私たちの常識として今目の前にあって運営されてる了解事項の集合であるような現実)に委ねてる代物なので、なんつーかオシイマモルダイスキな人はそのへんを疑問に思うべきじゃなかろうか。

 さておき、イスラエルのあのあたりは、どうも映像製作にあたって、兵士の個人体験を語るから敵兵の顔なんて見えないよ、だってそれが戦場体験なんだもの、とゆー縛りが、自発的にか、外からの検閲的にか、あるいは社会圧力的にかしらんが、あちらさん(もしかしたら俺らも)でフォーマットのひとつになりつつある・なってるんじゃなかろうか。

 だとすると、それはあちらの作り手にとって「戦争を映像化するための突破口」なのかもしれないし、あるいは現実の複雑さを「安易なお涙頂戴」に転化するための便利なツールなのかもしれない。どちらであるとは決めつけられないのだが、ただ、個人の戦場体験のトラウマとその克服を語りの定型に押し固めて、その上にだったら何でも乗っけられるというのは、エロゲのノベル物で「物語だったら何でも作れる」とのたまうのと同じぐらい無理な話だと思う。自由に作れると思うのは勝手だが、受け手は作り手の言いたいこととフォーマットとを全く区別せず扱うのだから、フォーマットの必ず帯びてくる思想や宗教観によって実際に出来上がったものはキッチリ歪む。その歪みを「この評論と作者解説とSFファン/探偵物ファンなら読んどくべき1000冊を手引きにフォーマットの歪みを排除しつつ真のテーマを読みとってくださいね」とか言うのはバカだ。「いろいろ歪んでテーマもキャラクターも読み取れないし何の役にも立たないし犯罪を助長しますけど、そーゆー歪んで犯罪を煽る反社会性に乗っかって俺に法を犯して無辜の民衆を虐殺しまくる元気を与えてくれるんです」とゆーのが俺の考える文学というやつなのだが。みんなして「戦場でワルツを」を見て俺もパレスチナ人を殺して芸術作品作るぜ!とか