はやりものの2

 話を戻すと、シンコもキイコも動く。動画枚数もそうだろうがいろんな意味で動く。ながれながれていつかきえゆく。としても、では何?

 不動なのは、その舞台だ。土地がどっしり構えてるとゆーあたりに焦点が定まってる。

 これは普通ではない。どこともしれない、どこにでもあるような場所がお話の舞台が普通に多い。アニメの聖地巡礼ウェルカムなご時勢でも、そのへんは変わらない。むしろキャラクターのアイデンティティやオーラはそのまま、こなたやかがみの残影が現実の鷲宮神社鷲宮に紛れもなくその足跡を残すことで鷲宮が決定的に変わったように、キャラクターの色合いが現実のその場所を彩り、場合によって景観や人々の営みも変えていく。(それが悪いわけでもなく、ホームズや金色夜叉のお宮や国定忠治涼宮ハルヒの顕彰碑が立って周囲に土産物屋が並ぶようなものだ。作中では、そうしてかつてあったものの上にさまざまが覆いかぶさって埋め立てられていくことも、それをひっくり返すことも、きちんと踏まえて描いてる)

 で、念のために書いておくが、歴史じゃない。文字に書いてるのではないから「おはなし」ではなく、カッチリとした枠組みによって続いていくような営みの流れではない。こどもたちは営みを続けていき、いつか大人になって子をうみ、またそのこどもたちが…というような連綿たるつづきではない。
 こども・こども・こども。つながりようのない、こどもたちだけのこと。それなのにつながってる気がする。まるで<a href="http://newtype.kadocomic.jp/seitokai/index.html">「生徒会の一存」HP</a>でヒロイン4人が同じポーズをとってくれているように、アニメOPでめまぐるしく4人が入れ替わっていくのと同じように、そこに根拠なんかないのにつながっているように思えてくる。

 映画の中でも、かなりポンポンと景気よく時間をすっ飛ばしていく。シャッフルもまるで無造作であるかのようにやる。時間を時間としてつなぐ気はないでしょう。そんなもん、いらないと思ってるはずだ。あるのは映画としての時間だけだ。内側には普通に時間と呼ばれる類の時間はない。信じてないとこうはいかない。ちょっと不安になってしまったら、もう時間が流れていることにすがるしかない。世の中を信じてるのの度合いがすごいのだと思う。

 だから、聖地、のようなのは、ない。実際にある土地について描いているから。