ブクマコメに書いたことの詳細。

>世の中のたいていのものは放っておくと長くなる。全部突っ込めばそれだけ長くなるし、切り捨てるのにはセンスと覚悟が要求される。
http://anond.hatelabo.jp/20130307203057

プランナーやディレクターにあたる存在が実質不在、という話だと思うんだけども、おいといて、

じゃあどこに工数が注ぎ込まれて「ボリューム」感を実現しているのかっていうと演出のスクリプトゲームエンジンの融通とシナリオ量で、だから「長大化」として語られる。そうしてヒロイン数が割を食う。

いろいろ不満が残るというか、ミスリーディングになりかねない記事。
以下は補足になるが、まとめると「全体が長くなったわけじゃなく、個別の要素ごとに時間をとる要素が増していって、それが『長さ』を感じさせるようになった」という話。

「世の中のたいていのものは放っておくと長くなる。」
「長さを制限しようとするストッパーがエロゲーにはあまり無い」
ここまでは基本的には問題ないと思う。ただ、この「長くなろうとする性質」は、多くの場合、個別要素ごとに<細部のクオリティアップ>という題目で持ち込まれてる。要するに、同じことを表現しようとしても、同じはずのワンシーンが長くなり、同じはずの情景描写が長くなり、同じはずのストーリーが長くなり、という話になる。
漫画が長くなったという例で見てみよう。同じストーリーが数倍の巻数を必要とする理由は、昔と比較して「書き込みが多くなり」「演出のための見開きや大ゴマ使用が増え」「台詞を読みやすくするため吹き出しに詰め込まれる文字数が昔より激減している」といった、「読みやすさ」「演出効果のアップ」「クオリティの向上」という題目のためにページ数が割かれてるというのは、嘘もあるけど(萌え4コマなんかは台詞数もコマ数もこれに逆らいながら一定の売上を獲得し維持している)衆目の一致するところだと思う。同じ理屈がエロゲでも適用されている。
ちなみにこの個別要素としての「長さ」は、「クオリティアップのために現場が積み上げてきたスキル」として現場の通常工程に組み込まれてるものが大半だと思われるので、こんな感じに業界人が「俺もそう思ってた。エロゲ長いよねー」などと細部の検討もなく概況的な感想を述べたところで、状況の改善に繋がるどころか、むしろ最低限必要なはずの要素を切り捨てておいて「短くしてみました! 買ってね!」とやらかし、案の定に評判が悪く売れず、「やっぱり短いのでも駄目なんじゃないか」などと言い出して元の木阿弥になるのが目に見える。だから共感を無駄に煽るばかりの一消費者という逃げを売ったエントリーやそれへの付和雷同が害悪である、というのは勿論ここでの主旨である。
前置きが長くなったが、細かいところを見ていこう。
 
「長さ」の元となる個別要素シリーズ
 
1:フルボイスになった
 全部の台詞に声がつくようになり、文章を読むだけよりも時間は遥かに長くなった。声がつけば、確かに文章だけよりも情報量は圧倒的に増える。見えない物も見えるようになる。多彩な表現もできる。
 が、全部に音声が必要というわけでもない。http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20110208では、コンシューマーソフトにおいて、全キャラの担当声優を採用しながら、音声を適度に省略する手法を紹介した。
エロゲでは「声を聴かせるのが目的」という題目のもと喘ぎ声が長くなったのもここ数年の特徴だが、これも「それが全部のソフトの全部のエロシーンに必要なのか」という検討もなく、萌えゲーも抜きゲーも関係なく採用されている「サービスアップ・クオリティアップ」の典型例である。エロシーン3回も4回も全部を喘がれ、「いらないと思ったら読み飛ばしてくださいね」というふうにテキストを読み飛ばさせる、その不要部分を読み飛ばすという判断をユーザーにさせること自体がユーザーにとってのストレスであるという判断があってしかるべきだろう。

 つぎ、2と3はまとめて紹介。

2:攻略ヒロイン以外の(ストーリーの根幹にさほど絡まない)サブキャラが増えた
 もともとは「主人公と攻略ヒロインしか出てこないようなハーレムって不自然じゃないか?」というツッコミに対するフォローだったのだろう。

3:ヒロイン全員が仲良しグループだったりと、登場人物全員が最初から最後まで出てくることが増えた
 これも、「攻略ヒロイン以外のヒロインが途中でいなくなるのって酷くないか?」というツッコミに対するフォローだったと思われる。

 2と3はナンパもののエロゲ―の、ゲームシステムに対する「野暮なツッコミ」を過剰にまともに受け止めてしまった結果から生じている。この弊害は言うまでもなく、登場人物が多くなりすぎることである。男性主人公、ヒロインA、B、C、D、の5人だとして、昔なら男と女の二人の間の会話で済んでいたものが、グループ単位で全員が関わるとなってくると、もしも全てのシーンにおいて全キャラを絡ませるとするなら、男xA、AxB、AxC、AxD、男xB、BxC、BxD、男xC、CxD、男xDというふうに10通りの掛け合いを挟むことになる。男性や女性のサブキャラが入ってくればもっと増える。実際はさまで極端ではないにせよ、「ヒロイン全員を均等に扱おう」とか「ヒロインが一人だけハブになって、ファンからツッコミが入ったら困る」とかいう理由で全員を均等に掛け合いの中に混ぜ込もうとしていけば、極端な事例に際限なく近づくことになるだろう。
 これらの状況の元になった「ファンの声」は、最初に述べたとおり、元を辿れば「野暮なツッコミ」である。そのツッコミを見事に受けて上手く処理してのけている傑作はあっても、それは1回限りの傑作であって、元の根本的な仕組みが変わらない以上は、それで問題解決しているという話ではない。やらなくていいならやらないほうがスッキリする。必要のないところにまで手厚すぎるフォローがまわりすぎた典型例である。 
 ヒロイン同士の掛け合い漫才や、その他のサブキャラとの絡みはファンにとっては楽しい物だろうが、そこはあえてファンディスクのお楽しみにとっておいても、特に問題はない。

4:「立ち絵芝居」が増えすぎた
5:アニメーションが増えすぎた
 いつもの。「情報量が増えた方が丁寧」という理屈のもとに過剰に情報量を突っ込んでいく典型例だが、とくに「立ち絵芝居」は映画や漫画のような構図による説明ではなく、全てを立ち絵の細かい挙動で済ませようとすることで、時間的な長さがこれまた飛躍的に増大していった。アニメ処理も同様。「アニメーション」つまり動きを表現するには、どうしたって動かすための時間を要求する。スクリプト処理がテキスト量増の最大の原因というが、これについてはスクリプト以上に「ユーザーを画面の前で待たせている時間が多すぎる」という話になるだろう。

6:カレンダーやパラメータ表記などの「区切り」のシステムが消えた。
 これは逆に「なくなった」もの。具体的にはカレンダーやスケジュールなど、テキストを適度に区切っていたゲームシステム的な表現がなくなった。「もはや小説と同じなんだから」「システムに制約されない期間のシナリオが書きたい」等々の声によるものだろう。
「モンハンやブラウザゲームが短く区切られることでプレイしやすくなっている」という意見を見かけたが、しかしゲームというのは大半がそれなりに短く区切ってプレイできるように出来ていた。RPGだって長いというが、中身は細かい戦闘の繰り替えし。エロゲにしたところで、現在のノベルの前身である育成ゲームやナンパゲー、RPGおよびAVGなどのスケジュール管理の枠組みの中でシナリオが次第に長くなっていった。シナリオが長くなる中で区切りの意味が見えなくなり消えていった。
 忘れ去られて消えたとはいえ、区切りを意識させる手法を復帰させること自体は、処理的にもさほど困難ではない。たとえば「魔法使いの夜」は章が終わるごとに本棚のページに移動して、章単位での区切りを強調していた。

 とりあえず、いつも書いてることだが、ざっと。
 それぞれは、効果的に使うことで斬新な表現たりうることもあるだろう。が人気タイトルと言われて買ってみると上記が勢揃いしていて、しかも効果があまり上がっていない、「TVアニメのぎこちない真似」「小説の偽物」にとどまっているというのがこちらの感じる実情である。具体的にはグリザイアとか。結果、売上が維持できているというなら、上記に挙げた諸々を無くす必要はないのだろう。あるいは、上記を全部とりいれたことで客を確保しているメーカー・ブランドが、ひとつや二つはあるのだろう。
 が、体力がない、売上が先細ってるなどというなら、上記を全部削ったところで、ストーリーテリングにさほどの影響があるとは思わない。新しいことを思いついた人たちが参入するにあたって、現状で業界の慣習と化しているような上記を削っても大した問題にならないことを知ってくれていればいい。
 
 いや、嘘をついた。実際には、業界についてはとっくに見限っている。
 こちらが守りたいのは、ビジュアルノベルの「立ち絵という切り抜き画像と背景という手抜き手法で映像ソフトを製作する手段」自体のコストの安さと、その安さがもたらしてくれるかもしれない、将来の多様な表現への可能性だ。同人なり海外なり全くの別業種なりが作ってくれるかもしれない、既存のエロゲ業界の盛りこめるだけ盛ったフォーマットの外側から来た新しい表現を受け入れられる、ユーザーの土壌作りのほうが大事なのだ。もはや成人販売という規制の枠組みに守られた既得権益と化したエロゲ業界から揶揄や横やりがあったとしても、ユーザーがそれらを否定できる余地を作っておく。

 それと、なんだか個人の好みを主張する場だと勘違いしているのがいたが、個人の趣向に当てはまるものなど、年に数タイトルもあれば、あるいは1タイトルだけであっても充分なのである(むしろ何度も再プレイするぐらいの余裕が欲しいのだから何十も出ても困る)から、それを、ことさらに強調することにメリットがあるとは思わない。「優しい作品」が欲しいなら、それ以外も含めてタイトルが流通し続けること、情報が流れてくること、それをだけ期待しておけばいい。