るろ剣の話

 90年代というとすぐ内向の時代とかの話になるんですけど。

 まず形式が個人主義を経て人間主義へと辿りついたのだと思います。物を読むのにも思想や社会じゃなくて、人間を全ての中心として見れるようになった。そのためのツールとして人の顔が固定フレームに採用されたのが同人顔です。漫画のコマがどんどん外に向かって破れていき、ページ数を確認できないほど断ち切りまで絵が描かれるようになる。これは顔を固定フレームとして見た場合に、コマを囲う線が必要なくなっていったのと連動します。伊藤剛の提唱した「フレームの不確定性」は、不明瞭な概念を振り回すより、画面が枠線じゃなく顔の描線でコントロールされるのと合わせて見たほうが展開の連続性が判りやすい。

 少女漫画からの顔単位の構成の各方面への輸出にあわせて、今までのマンガの文法と噛み合わないのを折衷させて無理やり合わせるために再立体化の作業が黙々と進められていく。この再立体化の過程で、同人顔の線に依託してた時空間の概念がごっそり抜け落ちます。その欠けたピースを埋めるため、大量のスクリーントーンや、ほっぺたの「ヒゲ」や、アニメの複雑怪奇な影のつけ方というのがそれぞれの分野で要請される。見れば一発で判りますが、当時のスクリーントーンや影の加工技術というのは今の目から見ると立体感とはズレたところに基盤を置いてる。おそらく、それ以前の劇画の書き込みの過剰さを受けてじゃないかと思うのですが、結果、本来の造型モデルと切り離された階層での書き込みとしてのスクリーントーンやヒゲが、リアリティや心情の発露といったものを一手に引き受けることになった。「きんぎょ注意報!」で感情記号が顔から切り離されて空中に浮くための前段階が用意されます(ちなみに「きんぎょ注意報!」はジョジョのスタンドが発明されるのと同時期)。実はここで、人物の内側(劇画の表情描写や、瞳に光を描き込んで感情を入れるという用法)にも、背景構図(背景の花やモノローグの文字や点描や枠線の多用などの用法)の側にも、人間の心情描写や内面性のようなのを入れ込む余地がなくなる。いや風景だけカットで心情描写フォローしろと文芸映画みたいのをやれば別ですけどね。つまり作品世界の内側に置き場が無くなった登場人物の心理が様々な形で視聴者に押し付けられたのが内向の時代の正体じゃないか。