で。

 ゲーム的リアリズムであるところのソリッドファイターに対し。

 RPGて、まぁ、ゲームマスターとプレイヤーで役割分けるじゃん。

 Fateも、ひぐらしも、あとクロスチャンネルも、ゲームマスターのシナリオ進行の都合で強引に進めてくよね、ていう。それだと、いくら語りの技巧があっても、プレイヤーどっかで飽きるよね。そっちばっか喋ってないで少しはこっちの都合きけ。サイコロ振らせろ。どんな目が出ても衝立の向こうで判定ごまかすとか、何度もやられるとうざったいです。

 なので、その手のは、ゲーム体験というのを追体験させてくれませんでした。そういうのはゲーム的リアリズムじゃないと思います。

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 あとなんか。これも懐かしい話だが。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060313#1142195617

「恋愛は獲得されるべき目標」というギャルゲー定義の段階で挫折します俺は。人間関係の距離の変化というのが(そもそも人間関係という奴が)理解できない。最初から好感度MAXなので変化しようがない(もっと正確に言うと女の子の気持ちなんか理解できるわきゃない、藤崎詩織の時代から)のがあの手のゲームの基本だから理解可能なのであって。

 ゲームシステム的に最初から交換日記はじめましたとか、初日から「おかえりなさい、マスター」とか、そーゆーのが当り前のコンシューマーギャルゲーのどこらへんに獲得されるべき恋愛が遠く設置されてるのか。KIZUNA値はCPU交換するだけで上限がサクッと変化するんだぜ。キスとか「恋愛」行為の発生がCPU性能に直結する(そのCPU交換は男性主人公が自分でやる)とか、どこがどう「恋愛」やねん。

 恋愛しないといけない、というのは、むしろセックスしないといけないエロゲの側が恋愛が結果的に成立つからセックスオッケーという倫理的な縛りを自分にかけているだけではないのか。エロゲーが、なんか言い訳しなきゃいけない理屈として「コンシューマーギャルゲー的恋愛」を発見し、それに責任をおっかぶせることで純愛ギャルゲ的本流に対する文芸的距離感を発見しますた的な。なんか西洋文芸に対する日本文学論みたいなノリのやつ。