スコット・ピルグリム

アメコミ翻訳版。上映中なので映画版は今日見に行く予定。

 えーまあ。2巻の作者のフェイバリット(オタク耐性のない一般向け、という括りで)の並びが「ベルセルク」「GANTZ」「DEATH NOTE」「あずまんが大王」「りびんぐゲーム」とゆーカナダの作家さんとゆーだけで、わりとこう、苦笑しながら深く頷いてしまう(1巻では「らんま1/2」「さる漫」の影響をあげてる)。

 が、おそらくは少女革命ウテナ(アニメのほう)の正統派オルタナティブ、というほうが説明としては的確な気がする。

 日本国内でウテナの後続というと、あの前衛系の舞台美術をアニメの中に取り込んだ様式美テイストの路線とゆーことで「天使になるもんっ!」や「忘却の旋律」のよーな方向で消化されていった扱いになっちゃうポイが、そっちに行かなかった場合の、別の方向性がここにある。
 ウテナの基本は、なんぞ青春のもろもろのモヤモヤや愛憎を、各話ラストの決闘で強引に決着つけるとゆー様式である。いわゆるヒーローものと違うのは、戦うのは怪人や怪獣じゃなくて学園内の狭い人間関係の中での人間相手であること。近しいのはロボで戦いながら言い争いするトミノガンダム路線だと思うが、「ロボなくても形式や様式を上手く取り込んで、それでバトルさせればいいじゃん」と、せせこましい人間関係を派手なバトルとしての見世物に昇華するのに必ずしもロボは必要ないねと様式美の効用を逆手にとって言い切ってしまったとこにある。様式美は様式美でしかないね、それを上手くエンタメとして活用すりゃいいんだよ、という見切りがウテナの段階で既にあったし、その特徴が基本せせこましい人間関係を派手に演出するための手法であるがゆえに、以後なんぞウテナっぽいテイストで本格的に人類存亡をかけたバトルをやられると必要以上に空々しく感じられもする。空回りしてることを自覚しながら必死に主張してます、とゆー青春終わらせ損ねたいじましさとでも言えばいいか。たぶんそれがキャラクターとして結実するとスタードライバーのヘッドになるのだろうが、まぁ、あまり人のこと言えた義理ではないが、そんな奴は単なる痛いオッサンオバサンであって、80年代バブル引きずってますアラフォーと大差ない。自覚度合いが中途半端な分だけ余計に痛々しいとも言える。

 で、スコットピルグリム。一目ぼれした相手と付き合うのに7人の邪悪な元カレと戦わなくちゃいけない、その恋愛とバトルが様式を通すことで細かい経緯を省いて一気に接続してる(恋愛感情がいわばモノ化してる少女マンガとバトルが観念化してる少年マンガとの結婚とでもいうか)のも実にウテナ的だが、その際に使われる「様式」が舞台劇ではなくゲーム文化というのが次世代。スコットも20代前半だし、作中の自堕落でカッコつけたいだけなニートの日常とゲーム感覚なスーパーバトルの同居は天体戦士サンレッドの描写するそれに極めて近しくもある。おそらく日本のオタク文化全般の「終わらせ損ねた青春」感を、カナダのほうで勝手に素直に共感して「俺も俺も!」とゆってくれたのだろうが、そこで世代共有ツールとして(ハイカルチャーの臭いがどうしても消えない演劇風味の様式美でなく)ジャンクカルチャーの底辺中の底辺であるようなゲームの様式を持ってきてくれてることが説得力がある。ごく普通に人間であるはずの元カレを倒すとコインになるという描写は、人の尊厳なんざ欠片もありはしないうえに、おそろしく即物的ですらある。このへん、ウテナが少年誌連載だとしたらスコットピルグリムは青年誌連載、といった具合だ。泥まみれ血反吐まみれ精液愛液まみれが劇画の支配下にある日本の青年誌の「オルタナティブなリアリズム」だったわけだが、では劇画的ではないゲーム世代のリアリティて何かといえば、殴って血が出ることでは、けしてありえないよな。