なにがどうプロパガンダかというと

 んーと。いつものことなのだけれども。自分では「論争」「ネットバトル」の中にいるつもりはなくて。ていうと気分を悪くする人やナニ言ってやがると呆れる人がそれなりにいるのは承知してるのだけれども。パフォーマンスつーよりか「この形にもっていくべき」という形式を重視しているのであって、そこに相手の事情とか意図とか勘案してません、というだけの。楽しむというのは自己目的というより楽しむ形であるべきであるとゆー目的性と一致しているとゆーよーな。

>届かない対空砲火を見当違いなほうに撃ってるって自覚がある人に、届いて当たる弾撃つか届いて当たる地上の的選ぶかして欲しい、みたいなハナシして「敵をつくるな」「同志となりうる人との連帯を求めよ」という方向に解釈されるとは思わなんだ。
http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20090613/p3

 勘違いされてる気がするのだけれども、ルワンダDJ先生の「交通整理」で、ネット上の反応を相手にしているような形をとっといてテンプレ(いちいち相手をする気はない)を貼っといてやっぱリンクしちゃった(ただし話をしたい約一名程度)、ていう形式からの微妙な逸脱の欺瞞(文章芸としては繋がってるけどネット上のレスの応酬として見た場合に繋がってない)についての話をしていて、そこに「無視してる」「相手してる」のと「リンクしてる」「リンク貼らない」のとの曖昧な領域、ルワンダ先生のコントロールを逸脱したシチュがあるので、そーゆー交錯のズレの隙間にねじ込んどくべきものはあるよね、という。

 ルワンダ先生の意図はどうあれ、衝突をいなす交通整理の手立てとして各レスそれぞれには対応できないし、していないという事実を残した、それはまぁ、ネットでよくある当り前の光景なのだけども、その「各人各レスを、都合により一つの集合にまとめて扱う」とゆー避け得ない手法の帰結先と、それへの処理。

 俺に反応するかどうかは、この場合どうでもいいわけです。誰かに個別対応する形式までエスカレートさせちゃった、その、ある程度のありえた可能性、んで実現しちゃった可能性、それが実現した時点でルワンダDJ先生は既にゲームを降りた形になり、じゃあ残された文章とその文章にレスがたくさんくっついた形をどうフォローしとくべきか。各人がどう請け負っておくべきか。そのための形式。