岡崎父の話

「二つの世界」を、多分安易に取り入れてしまったクラナドの一つの結末に、父親役への対応を巡る話がある。

 岡崎朋也というキャラクターは、読み方によっては「幻想世界」と「現実世界」の二つの世界を行き来しているように描かれる。その場合、岡崎家と学生寮の春原の部屋の二つは、本来が幻想世界の住人である「主人公」のヤドカリのための仮の住処となる。春原を巡っては本来なら春原(かつてのナンパゲーの主人公のようなキャラクター)が請け負うべき「ヒロインをナンパするゲーム展開」を岡崎が乗っ取り、岡崎家は岡崎朋也という存在の根拠を引き受けてくれる身元保証となる。岡崎の父親は最初から「赤の他人」として読めるように描かれる。

 通常なら「幻想世界」なんてのは主人公の現実逃避のための心理内の世界であるような「もうひとつ」の描写なので、父親が赤の他人であるような姿というのは否定も肯定もしえない一つの描写のレベルに留まる。が、クラナドの「現実世界」は、読み進めていくうちに消えてしまう程度の代物だ。どちらかといえば「幻想世界」のほうが叙述されていく内容としては一貫性を保って強度があり、そこからすると全くの赤の他人でたまたま現実世界での姿を借り受ける身元保証に必要とされただけの岡崎の父親の姿は、ほぼ現実世界における事実描写として受け取りうる。そんな読み筋に基づいた場合の父親との別れのシーンは、「僕には家族ができ子供もでき、この世界に居座る根拠(家族)を手に入れたので、あなたの戸籍による身元保証はもう必要なくなりました。なので、とっとと消えてくれ」となる。

 疑いようもなく十数年顔をあわせてきた父親だという描写がなされつつ、いかにもな酷薄な別れを描くなら構わなかった。が、実際は幻想世界の描写を受けての現実世界が始まるのははせいぜい高校3年の4月からだし、父親を追放したあとの現実世界は終わって「やり直し」となる。父親との確執と追放は、ほぼ最初から最後まで、道具としてのみ用意され道具としてのみ捨てるようにしか描かれない。

 自ら事実と真実を選び取っていく選択と分岐の物語というのは、常に逃げ道を用意してくれている使い捨てと忘却の物語だ。その登場人物に「人格」や「歴史」のような積み重ねと継続で成り立つ要素を求め得るはずもない。父親もまた主人公の自意識から切り離しうるオプションパーツとしてのみ存在する。