レッドミストもといマザーファッカーの掘り下げに専心した作りだったらどうか

キックアス2作目ですが、ヒットガールの学園シーンその他に使った時間のうち20分ぐらいでも、元レッドミスト、今回マザーファッカーとなったダミーコの描写に充てたら、印象がかなり変わるんじゃないかと思いました。
今回、レッドミストがいかにしてマザーファッカーに変貌していくかという描写がそれなりにあるんですけども、彼の内面を掘り下げるような描写がなくて説明的なエピソードの羅列に終わってるんですね(彼だけじゃなくキックアスもヒットガールも似たりよったりの掘り下げ不足の説明調だけど)。んでね。日本の特撮ヒーローなんかだと正義のヒーローよりか悪役のほうにドラマのスポットが当たるのはむしろ普通なので、そっちで行けそうな気がするんですな。
なんつうか、最近の流行は「子どもの頃に慣れ親しんだファンタジックな正義のヒーローを現実の壁にぶち当たらせて苦悩させる」方向ばっかりなのですが、よく考えるとそんなのちっとも珍しい作劇じゃないというかですね、マスクドヒーロー固有の話でもなんでもなくて、どんな物語の主人公でも変わらないというか、バットマンやスーパーマンをわざわざ持ち出す必要ないんです。警官が自分の正義感と職務における現実の壁の間で苦悩するとか、サラリーマンが自分の倫理観と会社の方針との間で悩むとか、なんでも同じです。
だから、アメコミヒーローにあこがれて現実にぶちあたる固有の悩みってのは、「イケてるコスチュームに身を包んでカッコよくポーズを決めて悪漢どもをボコスカやっつけるぜ」っていうスタイルの外見的なカッコよさそのものへの理想化と憧れ、しかし「実際にアメコミヒーローっぽいスーツを着たら体格のカッコ悪さやコスチュームデザインのダサさが際立ってしまう、しかもバトルは泥臭い」という現実、その二つの相克ってのが、本来なら主要なテーマになるはずなんです。「法の枠を踏み越えて自警活動を行うことの是非」と同じか、場合によってはそれ以上に。ヒーローに憧れて真似する、ヒーロー映画を見に行く、の拠り所になってるのは何よりもカッコイイという価値なんだから。マスクドヒーローなんていう「ガキっぽいもの」をきちんと現実と結びつけて映像化するにあたって、「カッコいい」を視野に外すわけにはいかない。

キックアス1作目はヒットガールの華麗な戦いぶりとキックアスの泥臭い殴り合いが対比されていました。キックアスに彼女ができてリア充生活を送るっていうのも、一方に「公共の役に立つ」と「個人の幸せに生きる」の対比がありつつ、しかしその裏に「ヒーローに憧れる」と「女を知って俺はもう大人だ、ヒーローなんてガキっぽいものは卒業だ」の対比もあった。
今回、その「ヒーローってカッコいい」という価値観に対する挑戦・相克が、キックアスにもヒットガールにもないんですね。キックアスは筋トレでムキムキになっちゃうし、ヒットガールが直面するリア充との対決もリア充の邪悪さが強調されちゃうんで、「コスプレヒーローのカッコよさという価値観」が試練を受けない。
 
で。
旧レッドミストだけが、「アメコミ的な世界観への憧れ」を抱え込んで、その憧れと現実とのギャップにきっちり苦悩してる(そっちの描写が可能である)ように見えるんですよね。
彼は元々、過保護に甘やかされて、安易にヒーローに憧れてレッドミストになり、1作目においてはキックアスのようには自分の姿のカッコ悪さと向き合ってない、という経緯がありました。父親が殺されても彼の思考は置いてきぼりで、むしろ夢想の中に逃げ込むようにしてヴィランとしての台詞をつぶやいている、そういう読み方が可能な引きでしたし、2作目でも身体を鍛えようともせず客観的に言ってカッコ悪いままでした。
<2作目での彼は、肉親を殺されているのに復讐すらもできない、ままならない現実から逃避したいという動機があった。だから元から抱えていた変身願望をこじらせてコスプレに身を投じ「キックアスへの復讐ごっこ」を始めた。しかし彼は暴力で彼の周囲を支配している本物のマフィアの叔父という「現実」と対決し敗北する。カッコ悪いコスプレ坊やでしかない自分の真の姿を突き付けられて、彼は逆ギレ気味によりいっそう夢想への逃避の道を突き進み、破滅的な暴走を開始する……>
だいたい、こんな感じでしょうか。映画の中の彼の言動の大筋を、私の想定する路線に解釈した場合。
ただ、上記のように解釈するには、描写が足りないんですよね。具体的には、前作での父親の死の影響や両親との関係の描写、コスチュームに身を包みたがる衝動やマザーファッカーを名乗ろうとする動機、叔父との対決の前後の様相が足されて欲しかった。たとえば母親の遺品からボンデージ衣装を発見するより前に、目出し帽や自作マスク(あるいは母親の下着やストッキング)を被ろうとする描写を挿入する、悪の軍団の名前付けの時に一度ヒーローっぽい名前をつけてから自分で否定して邪悪さを強調しなおした名前をつける、みたいな感じで。
そのへんを足して「レッドミスト改めマザーファッカーの物語」にしてしまい、キックアスやヒットガールを彼の逆照射像として見せていったほうが「アメコミヒーローを現実世界と擦り合わせる」という手法として正しい気がします。その場合、彼の「肉親を殺された事実からの逃避」はキックアスが肉親の死を克服するのと対比されうるし、彼の「自暴自棄な暴走殺人行為」はヒットガールの冷徹で迷いのない殺人マシンぶりと対比される。「ヒーローごっこに溺れて堕落してくクズの物語」をヒーローの活躍を見に来た人たちに見せるという、それなりに意地悪く、しかし意味のあるヒーロー批判を描き得たのではないでしょうか。