取替え子

 赤の他人を「お前の子だ」と押し付けられる親の気分てどんなだろうなぁ、と思って。そっち方面の描写はかなり抑え目であまり満足できなかった。や。基本的にとぅーむれいだー好きなので戦うあんじーが出てるだけでもいいっちゃいいんだけど。そんなわけで邪な目的は達せられなかった。

 仕方ないので、しつこくクラの話を続ける。つってもアレをギャルゲーの到達点だつって何がしかのテーマやメッセージを見出そうとしてく言葉たちが俺の首を締め付け、息が詰まって身動きがとれなくなる、てだけの話。

 クラの大まかなプロットを追っかけると

「ククク…貴様等の<想い>の力…実に…実に見事…。いま…その貴様等の想いの力と渚の胎を借りて…幻想世界の少女は現世に降臨する…!! もっとも渚の身体はそれに耐えられぬだろうがな…!! ク…ククク…クハハ…ハハハハハハハハハハッッッ!!!!」

 とゆー話で。で、

岡崎朋也…あなたはやり方を間違えたのです」「バ、バカな…俺は、俺はお前を…お前だけを求めてここまでやってきたのに!」「転生しやり直すがいい」「グワアアアアアアアアアア!!!!! う、うしおおぉぉぉぉ…ヲヲ…ヲヲォ…ォォォ」

 となる。どう読んでも他人を踏みにじってナンボな悪役の話だ。

 ロボ物でも特撮ヒーロー物でも、ある程度の爛熟を向かえると無辜の市民よりか悪役のストーリーのほうが出張ってくる。おそらくは書式・形式が確定することと人格描写が深まることの相関の最も単純な表出のあり方なのだろう。で、悪役のストーリーが極度に肥大化してくと足元で踏みにじられてるはずのフツーの人たちの立場がだんだんなくなってくる。まぁ「無辜の市民」なんぞがやたら出張ってるのも戦後民主主義的ですねとかイカニモ19世紀以降っぽいですよねと言えるんだけど。さておき、ある種の形式に固執することで人格の深みを手に入れるというのを逆に読めば、「人格描写」を手にするために特定の形式に絶対性を付与しようというモメントが常に働いてると言える。で、その際に結構な率で排除され踏み潰されていく「その他の人たち」が発生する。谷口悟朗だとまだ男の装飾品扱いな女性キャラを露悪趣味的にみせつけるだけの自覚はあるが、クラのライターの言葉や評論な言葉がどんだけ「その他の人たち」へ向けられてるかというと、まず何もない。それで家族だ共同体だ仲間だと言う。