レイヤーと線の相違

 レイヤーと対立する概念は線で、線の流通最前線はモチロン漫画だ。漫画の枠線についてレイヤー語りでは説明できず、だから動ポモは伊藤剛を必要とし伊藤剛はコマの相対化によって漫画の読みにかなり強引にレイヤー語り(フレームの不確定性、キャラ/キャラクター)を導入してみせた。この手法は「コマ」や「キャラクター」の概念を自明視しその根拠を不問に付すことで成立していて、それに対し「そもそも、なぜコマなどというものを僕たちは普通に読解してしまえるのか」と、例えばササキバラ・ゴウなら<a href="http://gos.txt-nifty.com/">コマを囲んでいる線とは一体何なのか</a>との反論が生じる。(もちろん簡単な答えなどない)

「紙芝居」と述べてしまった場合、この漫画の枠線についての問いは全く参照されず、ビジュアルノベルと隣接した漫画との関連性や相似や相違の考察が連結されない可能性がある。枠線がなくても漫画的表現の引用は山ほどなされ、漫画表現の性質や起源を無視して語ることなど出来ないのに、だ。デジタルコミックとビジュアルノベルが現在分かれているのは実のところ販売価格や流通系統の問題が大きく、つまり漫画という安くて面白くて遥かに幅広く懐の深いメディアと比較される危険性のゆえにデジコミと差別化すべくビジュアルノベルの様式としての「紙芝居性」が強調され、結果として自らの定義領域を狭め隅に追いやられて足場を失っていく自縄自縛の中でのみ安定した定義づけと満足を見出しているかにさえ見える。もし「文章と絵だけ用意すればとりあえず作れる」手軽さ、立ち回りの速さ、他メディアとの相互乗り入れの簡便さを本来の足場とみなしインディペンデント系メディアとしての展望を見出すのなら、レイヤー的な重ね合わせ以外の画面作りは十分ありうるし、10年前より高性能化したPCの処理能力をかつて白詰草話が開拓しようとした分野やその方向性の表現周りのツール化に次ぎ込むことが現状の「立ち絵」の加工動作より不毛ということはない。

「誰でもビジュアルノベルが作れるツール」は画期的だったし今でもその意義は衰えていないが、「文字と絵の組み合わせ」の方法論がそれ唯一と見なすべきではない。ある程度の市場を獲得した結果として技術が創作に対する抑圧に変化している可能性、いわば簡便さに貢献したがゆえの「Nscripterの功罪」といった問題が本来なら議論されなければならない。