環境か権力か技術か創作か

>「環境管理型権力」て単語を見ると思うのだけど、言うほど狙いすまして望む環境を(低コストで)作れるのかね、という。マクドナルドの椅子に長時間座るマック難民が出現した(つまり固い椅子は路上よりは居心地がいい)後で、まだマクドナルドの椅子の喩えを持ち出すのってどうよ。

 などと以前に書いたが、技術が抑圧に繋がるて話には基本賛同しない。前提条件がいろいろ欠けてると思うから。上の例なら最終的にマック以外の諸環境がどうしようもなく悪化して店員がマック難民を締め出すのに暴力や差別的言辞を使わないと追い出せないという状況になってようやく権力て単語と接続するだろうとか。なので一定少数のプログラマの嗜好や手仕事が即「権力」たりうるなどありえない。

 だが一方でユーザー側の知識の欠如で事足れりとする言い分を製作側が広言するのを許容する気もない。作り手が作ったものに係る責任を全て負えるわけもないが全てが免責されるわけでもない。創作行為を特別視し技術からある種の精神性を分離したがる傾向下ならなおさら創作のベタな技術性と技術の精神性・思想性の傾向は助長される。ツールをいくとおりも用意された環境下でツールを自由に選んで自由に創作する権利と環境が創作者にあるなどと教条じみた発言にしがみつく技術屋もいるのかもしれないが、「選択肢があるから自由」などという物言いがどれだけ根拠のない妄言か、それこそビジュアルノベルのシナリオでは幾たびも取り上げられ目にしたはずだ。

 美術館で飾られた絵を手にとって上下左右に振り回しながら鑑賞するだろうか。回廊をカニ走りで移動しながら視界を横切っていく絵に対し感慨に耽るものなのか。美術的価値などなくても、街中ディスプレイの些細なアイコンであっても5分や10分立ち止まって眺めることはある。映画にしても、クローズアップした表情の長回しは当り前の演出だ(もっとも、映画館の真っ暗な中の巨大スクリーンで対峙する顔のそれを明るい部屋の中ビデオで見てしまうと何をやりたいか理解できないかもしれない)。

 絵描きが数十時間格闘し仕上げた「立ち絵」と、まがりなりにも数分なり数時間なり正面から向きあった体験に意味がなかったはずはない。3Dポリゴン化し動かすことに適した絵もあるだろうが、そうでない絵は圧倒的に多い。動かさないことを前提にした絵画技術の歴史のほうが圧倒的に長いのだから。