そっちの専門家の話は幾つか調べたほうがいいような

 グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』をid:hiyokoyaの人に紹介しちゃったのは僕なので、一応、責任を感じなくもないので、拙い知識で書くが。

 まず、

イデオロギーの再生産装置として機能してるんじゃねーの?

 という部分を引用したかったので、その部分はグロスマンの本には直接は関係しない。何でも全肯定全否定単位の発想で喋らないで読んで考えてよね、と逃げをうっておいて。

 件の本は引用元提示が無く使用には怪しくて。にも関わらず紹介したのは、大塚英志トミノ御大や、ゲーム悪影響論者の人たちがこの本を参照した発言をしてたりして、ゲーム話では気にしといたほうが絶対にいいだろう、と。

 で。個人的には、主要な部分も、センセーショナルで問題提起的で大事な話ではあるけども、鵜呑みには出来ないと思います。まず、戦史研究と心理学その他の組み合わせは海の向こうでは積み重ねがあるので、その文脈はおさえといたほうがいいっぽい。つっても、僕が詳しく読んでるわけじゃないので言い辛いのだが。他で見かけた例。

>ジョン・キーガンの『戦闘の<顔>』に刺激されて、古代史研究者たちは、現代の戦闘に関する心理学的研究の結論を古代の世界に適用しようとした。このような作業に際して必要となる、方法論上の注意点を示す一つの例をあげよう。S.L.A.マーシャルが1947年の著書『銃火に立ち向かう人間』の中で主張するところによれば、第二次世界大戦の戦線で戦ったアメリカ軍のわずか四人に一人しか銃を発射しなかったという。(中略)現代の統計値を短絡的に古代に適用してよいかは疑問である。マーシャル自身、彼の考える数字が普遍的な標準値であるとは考えなかった。のちの著書でマーシャルは、このような発砲率が朝鮮戦争のときには三七%と五五%の間の値にまで上昇したと論じた。現代の戦争を研究する歴史家たちは、マーシャルの統計値には懐疑的である。
(ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』岩波書店2006)

 懐疑的な戦史研究家の名前が書いてないよ! とゆー情けないオチがつくのだが、ここからでも色々とイメージは掴めると思う。イデオロギーのみならず、「死」や「人間」の概念など、考えなきゃいけない要素は山ほどあってさ。東浩紀が安易に哲学的に動物也なんぞと書いちゃったのが将来の虐殺の芽になるんじゃないの、というのは前にも書いたが。