「おおかみこども」について、うだうだ思ったことをネタバレ気にせずに書くよ

先日(http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120725#p1)、「ようするにエロゲと同じだよな」と書いたら、凄くしっくり来たわけです。
花って、たぶん、鍵ヒロインあたりに一番近いんですよ。

間接的な話として、娘の雪と花との交流って、娘が「人間」への道を辿り始めると同時に画面から消えます。花と子どもとの関係は、なぜか息子の雨との間でしか題材として取り上げられません。
それはつまり、人間対人間の関係を描く気は毛頭ないってことでして。「自然」の側に向かった息子としか、花は対決しない。
なんなのって言いますと、作品的には、花の周囲には、それ以外の一切の「人間」キャラを置かない。男親の狼男も花に行動動機を与えるための道具でしかない(監督さんのインタビュー発言からも、花の行動に説得力を与えるのが最重視されてるのが見て取れます)し、田舎の人たちもそれ以上は関わってきません。
んでね、監督インタビューからも、「子どもは怪獣」といった発言が見受けられるように、子どもの人格は花から自立していくとゆー要素でしかないわけです。子ども達と花が、一対一の人間関係として対立するわけじゃない。雨は臨死体験からは、ほぼ完全に人間以外になっちゃいます。

ネットでね、ヒロインの花は空虚だっていう意見があるんですけど、そうじゃなくて、そもそも映画中、花以外には、キャラクターとして描かれるべき対象がどこにもいない。人間と人間の間の対話がない。花というヒロインの周囲には、子どもも含めて、彼女をとりまく「自然環境」があるだけ。画面は花を軸に、それ以外を排除して進行する。それは何を意味するかというと、画面に描写される、見事なアニメーションも自然描写も、それら全てが、花というヒロインの描写なんです。花に「内面」を見ちゃいけない。彼女の表情の奥には何もない。けれども、彼女のあの微細な表情の「外」には、彼女が何者であるかを語る圧倒的な質量の「背景」がある。その「背景」こそが花の、従来的な意味での内面にあたるわけです。

これって何だといったとき、僕にとって最も近いのは、特定のヒロイン一名を攻略して、画面中央にそのヒロイン一人だけが配置され、それ以外は全部背景となる、純愛系のノベルギャルゲーです。画面全部が、いや男性主人公の語る一人称テキストまで含めた(つまりそれを読む読者である僕らも含めた)全てが、ヒロイン一人に従属する構造。

ここでは「美少女」を、やや特殊な概念で捉えています。美少女は、人格とはいえません。女性でもありません。外から観賞される、その一点において結晶化した、いわば視線を跳ね返す鏡のような存在です。アニメでもコミックでも、美少女は美少女であるが故に、その存在を否定されませんし、ある種の聖性を備えており、干渉されたり洞察されたりすることから除外されます。つまり美少女については登場した瞬間からアンタッチャブルであり、その不可侵性から周囲と対峙し独立しています。

ヒロインの花の、表情の微細さは、まさに与えられた環境や状況に受け身で有り続けるがゆえのもの、つまり大きな難題をかかえつつ男性主人公による救済を待ち続けるギャルゲーヒロインのそれです。
「作品後半の花がちっとも30歳のオバサンに見えない」のは、花がオタク的な意味での美少女であるためです。
クライマックスでの、娘の雪と息子の雨との扱いの差は、娘が人間になった(正確には「もう一人の美少女」になった)段階で背景ではないからです。自然物である息子の雨のほうが、花の表情と対比される「背景」である。ギャルゲー的な意味でのヒロインの内面なんです。
アニメの記号的表現は捨て去ったかもしれません。そのかわり、いやむしろアニメーションの記号を捨て去るために、アニメーションから見ると実は外部要素である「美少女」(静止画像としての表現に近しいですから)を無批判に採用したのだ、といえます。
ナレーションが一人称ではなく娘の雪によるものである理由は、ギャルゲーが男性主人公によるモノローグで進行しつつ、物語の実質主人公がヒロインであることと、同じです。ヒロインは独白するべき内面を持ちませんが、内面に匹敵する「外」を持ちます。
子どもたちの名前が「雨」と「雪」というのも、子ども達をキャラクターとしてより背景、より正確には画面全体を占有するモノとして扱っているからと考えるとしっくりきます。アニメやギャルゲーは雪や桜の花びらのように、画面全体に散らされるものを多用するんですけども、それは実写のようにはモノを描写できないから、書き割りの背景ではない空間を埋め尽くすものが欲しいためです。細田守の映画はあれだけ背景を描きこんでいるじゃないかと反論されるかもしれませんが、背景の緻密さと、人物のシンプルな描線のあいだをどこで接続するかとなったとき、雨、風、雪、あるいはモブといった、人物を空間に埋め込むためのものが大事となってくる。

ヒロインのキャラクターデザインは言うまでもなくアニメやコミックの延長にある。そこは変えられない。だから、本来の人間の造作とは基本とするモノが違うという意味で、極めてくと根っこにあるのは記号、もしくは人間の顔そのものじゃないのに人間の心情を反映する鏡のような意味合いとなっていく。祭事で被る仮面のようなものです。
オタ的な、目がおっきくて、顔の輪郭がホームベースっぽくて、髪の毛がやたらたくさんあって、という「美少女」てのは、既に女性であるとか性的ななんぞであるという以上に、能面や、歌舞伎の隈取り、もっといやバリ島あたりの神々の面のような何かに近しい。そういう美少女を一人だけ画面の中心において他に一切の人物像が入らないのが、女の子を攻略するエロゲやギャルゲの画面でした。その作りの故に、ありとあらゆる要素が「美少女」に注ぎ込まれ、だからツンデレヤンデレだ、果ては妖怪だ物品だ神様だ邪神だと、この世のありとあらゆる要素が「美少女」化してきた。
おおかみこどもの雨と雪」もまた、画面から社会性を、つまりはヒロイン以外の他の人間を徹底的に排除することで(途中で出てくる重要人物そうな老人も農業だけ教えてすぐ退場、子どもたちは「人格」を獲得したら退場、他はモブ)、そうしたギャルゲーの画面に近い構成となった。
花が完璧すぎて殆ど神様じゃないかってのは、だってそうだもの、としか言えないわけです。ギャルゲー的「美少女」ってのはそういうものです。だって、画面内で唯一の「人」だから。そして、花とは何者なのかっていったら、花という人間の身体の中にあるんじゃなくて、逆に、その表情によって反射されるこちら側にこそある。つまり画面で緻密に描きこまれる背景や自然物、もっと言えば視聴者、になる。(細田守はインタビューでさんざん「自分を投影してるのは格好いい狼男じゃなくて花のほうだ」と言ってますが、そんな意味です)

そこに批判すべき、あるいは評価すべきポイントはあるのか? と言われると、現在のオタ的な創作物っていうのは、そういうジャンルなので、としか言いようがない気がします。「美少女」が普通の母親であるかのような代物を見させられたリアル母親やリアル女性がどう思うか、あるいは二次元と三次元の区別がついてない児童や一般的な男性がどう思うかというのは、一つの重要なポイントだとは思うんですが。
一方で、オタクの男どもは二次元の美少女と三次元のリアル女性を峻別してるので、まあ、見間違えないだろうと。

追記すると、おそらく映画の中で例外的に花の描写じゃないのは、娘の雪の、小学校での男の子との出会いであり、嵐の夜の学校でのシークエンスなんですけども、これはもう実質的に並列で語られる形で、それは、雪が成長して「美少女」の範疇に入ったからだろう、と。こう書くと、なんかこお、「うわあ」って気分にはなりますね。
あと、似たような、ただ屹立してるだけで視線を反射するような存在として、『東京物語』その他の原節子なんかはあると思いますので、「銀幕のヒロイン」てのは、一面において、そういうものであるのかもしれません。ただ原節子は映画の中の生身の登場人物たちの行動や発言を跳ね返すような位置づけだと思いますので、やはりギャルゲーのヒロインとは違うと思うのです。