『「複製」精読』から

>そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである。夏の真昼、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは眺めている者の上に影を投げかけている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現われ方にかかわってくるまで、目で追うこと――これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。

>写真が現われたことで、全戦線において展示的価値が礼拝的価値を駆逐しはじめる。だが礼拝的価値は、無抵抗に退却するわけではない。それが構える最後の砦は、人間の顔である。肖像写真が初期の写真の中心に位置するのは、偶然ではない。はるかな恋人や故人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす。人間の顔のつかのまの表情となって、初期の写真から、これを最後としてアウラが手招きする。