心に届く

 顔と表情の間には距離がある。ただ、その振れ幅は本来であれば作り手と受け手、作品と人、ディフォルメと写実といった、それぞれの振幅の中でもって回収されるはずのもので、表情から(演技から、感情から、体から)切り離された顔が紛れ込んでくるのは特殊例だ。

 ちょうど「まんがをめぐる問題」で「人の顔と解釈できれば、どんなに雑に描いた形象もそれ自体でなんらかの表情や個性を表すという命題」という話を取り上げてる。

http://gos.txt-nifty.com/blog/2008/05/212_9496.html

 ようは漫画の枠線として使われる「線」と「人の顔」が全く横並びに扱われているという話だ。逆の言い方をすると、顔を見出すとき人は「表情や個性」のレベルに視線を留めようとする、となる。

 しかし、実際には「表情や個性」を見出すにあたっての距離が酷く遠いこともある。日常的な感情を見出すのが困難な表情としてアルカイックスマイルなんて言葉を見つけてみたり、あるいは「不気味の谷」なんて中途半端な単語を弄んでみせたりする程度には。例えば「絵師の劣化」なんて話題もあるし「美人とは平均的な顔のこと」なんて話題を持ち出してもいい。「意味を剥ぎ取られた顔」というのはそれなりに特殊だが、忘れた頃にしばしば出てくる。映画でも顔のアップを長回しなんてのは常套手段だろう。<a href="http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080328">写真の顔にはアウラがある</a>が、映画で長回しされる顔にはアウラがない、となる。長回しの対極になるが、個人的には『東京物語』初見時、原節子はそれこそ「不気味の谷」のどん底のアンドロイドのように見えた。

 脱線したが、要はエロゲーギャルゲーで使われる「顔」というのは、枚数制限のような環境のために、特定のコードで作られる感情表現や内面描写のような表情から切り離され、しかし意味から切り離されたままの「顔」ではいられない。そうして人文的文脈と異なる別のコードと結びついた意味として「萌える」概念体系にたどり着く。

 で。

 葉鍵は、とりわけ鍵は、通常の「萌える」の範疇から外れて突っ走ったために、文学コードを使ってエロゲを読み込もうとするアレな人たちの琴線に触れてしまう非常に偏向した内容であったために、後続が安易にパクり後に続こうとしたとき予想外に大きい副作用を生じさせることになる。

 続く。