『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』

ガールズ&パンツァー」の水島努による監督及び脚本作品。
シナリオ構成的には後述しますように難ありですが、それを上回るだけの刺激があります。
私はDVDで見ましたが、今日の午後3時にCSで無料放送するらしいので、見れる人は是非に。
ついでに、ショメ監督の「ベルヴィル・ランデヴー」および「イリュージョニスト」も明日か明後日にもBSイマジカで無料放送するそうです。こちらも見れる人は見ましょう。国内で出てる(レンタルできる)DVDだと多少不満があったりしますので。
 
 
以下、映画および「ガールズ&パンツァー」のネタバレあります。
 
 

映像的な水準で言えば、3Dゲーム。
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050420

という評が記憶の片隅にあったので、あの戦車のFPS的な視点との共通項とかあんのかな、といった軸線で視聴。
先回りしておくと、リンク先の言うほど「映画よりゲーム」ということはない。ゲーム的なカメラアングルというのの多分大半は映画で既にあるものだと思います。もちろんFPSゲームを想起させるアングルもある(例のウソ予告編でも確認できます)のだけども。

基本的には映画的と言っていいというか、映画愛もしくは映像愛で出来上がってます。むしろそっちに引きずられすぎてしまっていて、シナリオ全体の軸であるはずの、しんのすけの「映画の世界からカスカベにどうしても帰る」というモチベーションが全然説明されてない。おそらくは、水島監督の脚本において(脚本が煮え切らないまま制作に入ったことが監督のブログで明かされている。http://blog.goo.ne.jp/mizshima1941/e/e51525875b073034c348c342ed2f8011)、映画の世界から現実に帰還する、という心理が組み立てられなかったんじゃないかな。
オトナ帝国のちょっと後にあたる作品なんだけども、オトナ帝国がノスタルジーとの対決であるのと違う。懐古はどうしても保守的にならざるをえなくなるし、新参者や自分とほんの少し違うものを無視し或いは自分が当然と思って省みもしない価値観の中に相手を縛り付けようとするし、社会とか世の中とかいうゲームのプレイヤーを既存のプレイヤーだけで回そうとする(というより社会もしくは物理世界というゲームが常に参加者と脱落者が大勢いて激しく入れ替わっている、という基本的な事実を無視する)。知ろうとしないし聞こうとしない、そういう「簡単さ」にネトウヨ的なる心情は根を張ることが当時すでに予見されていたからこそ、オトナ帝国はそれをいち早くすっぱ抜いてみせたことに意味があった。(アレを見て当時感動した人たちが今あっさりと懐古の側にまわっているだろうという意味において)
けど、カスカベボーイズのそれは映画の世界であって、映画はそういうノスタルジーとは違う。それは作品の結末によく現れていて、しんのすけは、つばきを失った嘆きを端から見て実にあっさりと終わらせてしまう。映画が終わるっていうのはそういうことで、あるいは子どもってのはそういうもので、と言ってもいいかもしれないけど、映画世界は最初から現実世界に対し敗北している。(それを延々と、多分に演出気味に嘆いてみせるのが押井守
 
現実と虚構の対立を見いだしちゃえる人じゃない、というのは、「ガールズ&〜」でも基本的に受け継いでます。映像が所詮は箱庭であることを熟知して現実とは対決するのではなくすれ違い、もしくはぼんやりと重なり合う形を選ぶ。「ジャンゴ」見た直後なのでタランティーノと比較したくなっちゃうんだけども、映像世界の積み上げてきたものを愛しているし作風も割と似たところにあるんだけども、タランティーノの無邪気さというかアメリカ映画が復讐劇とかいって悪い奴を殺しまくってスッキリできちゃうのに対し、やっぱし日本映画だからですかね、ちょっと屈折というか鬱屈というかあって、そういう善悪や普遍的な価値観を素直に提供できてない。できないから悪役はヒステリックなほど過剰に悪に走る。スプラッタで乾いた「ジャンゴ」の暴力描写よりも見る人によって気分が悪くなる(たぶん直接的な描写としては今のアニメでは放送自粛がかかりかねないぐらい踏み込んだ)暴力描写の根っこにあるのは、おそらく「どれほど対抗しようとも現実に勝てない映画という虚構」の吹き上がりじゃないかしら。

そんな水島監督の作風について「教則本通り」ていう評をしてる人がいて、うんまあ、そうだなと思うんだけども。
おいといて。
 
ゲーム的な、FPS的な視点について。
これは、そういうわけで、10年も前から水島監督が導入してるわけで、「ガールズ&パンツァー」のそれは別に戦車ゲームから採用したわけじゃないというか、そういうのがあることは意識していたとしても、そこに依っているわけではありません。
ていうか、こないだも映画全編とおして戦車の中っていう「レバノン」て映画があって(未見ですがTSUTAYAで借りられます)

そういうFPS的な想像力ってのはゲーム映像文化が20年30年かけて積み上げてきてるから、あちこちで採用されるのは当たり前だと思うんだけども、「ガールズ&パンツァー」1話、みほと優花里の会話から始まる冒頭、話者の視点であると思わせておいて、みほと優花里をそのアングルの中に登場させることで視聴者の想像を外す一連の流れについて、単にFPSである、というだけの説明では勿体ないといいますか。あれはおそらく「戦車の視点」なんです。
タイトルが『少女「と」戦車』であって、『パンツァーガール』ではない、ということの意味を掘り下げるなら、戦車という存在は少女たちから独立した位置づけにあり、両者は別々である、ということを強調したかったんじゃないか。たぶんそれは、パイロットと一心同体が前提のロボットアニメの文脈とは違うということなんだろうし、ロボットアニメからインスパイアされ後を受け継いでるいわゆる戦闘少女の文脈でもない(戦闘しないし試合だし)ということなんだろう。
勇者シリーズサイバーフォーミュラのごとく機械に発話させキャラクター化するのでなく、戦車をモノとしての戦車のまま単なるモノでなくさせる、そういう意図の元にFPS的に見えるカメラアングルを選択しつつ、「実はみほという主人公視点のFPSではなかった」というズレを経由し戦車という「もう一つの主役」への誘導を狙う。言ってみれば「ゲーム的な視点」というトリックを使った換骨奪胎な手法であって、それを単にFPS的であると呼ぶのは、だいぶ違和感がある。
最終話にしても、やはり戦車視点から始まって戦車視点で終わるということでもあるし、西部劇的な一対一対決の様式に作品の形を落とし込むには「みほ視点」ではなく「戦車視点」でなければならなかったということじゃないかと、想像するのだけれども。

その他いろいろあるのですが、カスカベボーイズの放映時間に間に合わせなきゃいけないので、このへんで切り。ぜひ見てください。