@oyomot: かたや「絵じゃないものから記号をはぎとっていく」、もう一方は「記号と絵の結びつきが成立し意味が成立するギリギリ寸前の、絵でしかない刹那を見極めてく」。
@oyomot: これは、言ってみれば写真について考察を巡らしたベンヤミンのそれとはまったく逆の素材から逆のアプローチを経て「アウラの消失」と重なる、けどもまるで正反対の観察を行ってた、と言っていいんじゃないでしょうか
@oyomot: 画家じゃなくて、二歳児や三歳児が描いても、それを「絵」だと思ってくれるのが人の顔である(顔とともに「ヒトガタ(両手両足と頭のついてるような、なんとなくの人の形」も少しばかり入ってくる)というレベルまで絵が成立するための要件を見極めたのがテプフェールでした
@oyomot: その見極める行為が「線が顔になるとき」、つまり観相学を巡ってのテプフェールの考察ということになります。単なるぐちゃぐちゃとした汚れではなくて、「ああアレだ」と見て取って、元ネタとつないでくれる波打ち際。それが「顔」である、ということですね
@oyomot: マンガが出発点にしたのは、絵が絵として成立するギリギリを見極める、というところでした。人は、何も言わずに差し出されたとき、どっからを絵だと思ってくれるのか。認知科学っぽいアプローチですかね
@oyomot: そしてマンガですが、マンガの場合はどうだったか。マンガは「写真」でもなく「幻視」でもなく、もちろん「絵画」でもなかった。
@oyomot: ステレオスコープや万華鏡、幻灯機、フェナキスティスコープ、等々、いろんな仕組みが開発され、もちろん映画のフィルム映写の仕組みもここに入る
@oyomot: さらに一方「元ネタと同じだと思って見てた絵が実際に目で見てるのと同じじゃないって?じゃあ無理でも同じにしてやんよ」という路線があります。こちらは従来の絵の形から離れて、物質じゃダメだ目で見るって行為に近づけないと、と、幻視という方向に向かう。「観察者の系譜」で語られるのがコレ
@oyomot: 一方、実際に手を動かして描いてる「いわゆる絵画」のほうは、「目で見てそっくり同じ」が「どうやらそっくり同じじゃないらしい」となったので、だんだん、そっくり同じ路線じゃなくなっていく。こちらは「絵描きが描いてるという行為の成果だからこれは絵だ」みたいな感じになってきます
@oyomot: 写真機という機械で半自動的に描かれた「絵のようなもの」が、意味がないことによって「これって絵なのかなあ」「絵じゃない写真だ、複製時代の写真なのだ」となってく。絵ってのは、絵と記号の組み合わせですが、絵のフリをしていたフェイクが記号を削られてくことで絵のフリができなくなった
@oyomot: では、いわゆる絵画、ベンヤミンがいうところのアウラのあるような写真になっちゃうやつ、とは何かというと、こないだも書きましたが文脈があるってことですね。文脈がある、つまり、絵の背後には、知識のない人がパッと見てわかる以外の別の意味がある、つまり記号があり構造がある
@oyomot: それが、なんか過去において絵の題材にならなそうな、いわゆる資料写真みたいな感じになってくと、アウラがなくなる、これが複製芸術の時代の特徴なのだ、とか言い出すわけですが、つまりは絵を描く機械で絵を描いてるうちはアウラがあるが、絵を描く機械で絵を描かないとアウラがない、と
@oyomot: 絵のフェイクである写真についてはベンヤミンが語ってるのでそっちに投げます。そこでベンヤミンがアウラという話を持ち出すわけですが、ではアウラって何かというと、要するに、いわゆる絵画っぽい写真(家族写真とか有名人の写真とか名所旧跡の写真とか)だと、まだアウラが残ってるっていうわけです
@oyomot: 絵の、元ネタにそっくり同じだという感覚、に沿うのは、言うまでもなく写真です。というより、写真はカメラオブスクラという機構の過程から、「いわゆる絵画」と同じような形で見れるように加工抽出したもの。いってみれば半自動絵かき機。あるいは絵のフェイクです
@oyomot: 少し前まであった「絵ってこういうもの」という感覚に沿って、その感覚にあうものが絵じゃない形で成立してく。それらもつまり絵の延長であり、解体されたあとの絵のひとつの形である、といえる。それまでの絵の発展的な解体、とでもいうか。