「THE NEXT GENERATION パトレイバー」エピソード0、1

動機を説明すると、某川崎ラゾーナで「進撃の巨人プロジェクションマッピング」とゆーイベントがあって、見物に行ったんですけど、これが非常にショボくてですね。
それでやるせなくて気を紛らわすべくパトレイバー見に行った、そんな感じ。

楽しめたですよ。普通に。なんつうか、来てくれた客をもてなそう、って感じだった。そこは「押井節でどうこう」って言い方をすべきじゃないと思う。いろんな手練手管で飽きさせないように頑張ってくれて、それはそれなりにきちんと効果を発揮してくれてた、と思う。

ただ、もてなしてくれるのが、いい加減、化粧のケバい60過ぎのオバちゃんなんで、手練手管がこなれてるのは有難いんだけど、友達を誘って連れてくほどに凄く魅力的かと言われると、そういう店にそこそこ通いなれてるオッサン的には悪い気はしないけど貢いでやろうってほどじゃねえなー、というか。某進撃の巨人イベントが空振りして気落ちしたような、まさにそういう微妙に気分転換したい時にフラッと立ち寄って、まあ来てよかったかな、ぐらいの。

んで。

今回、押井守の強い希望で実物大サイズのレイバーを作って撮影したらしいんだけど、一方でイベントや告知の意味も込めて、その作ったレイバーを各所で興業的に見せて回ってるわけじゃないですか。
そのへんの経緯が「作りたくない言い訳で放言したら揚げ足を取られた」みたいな話じゃなく、ちっとは真面目に発言してると仮定した場合、たぶん押井守的にはスクリーンの空気感を作る、世界観に通底させるためのノイズの発信源みたいな意味で作ってるんだろうと想像するわけですが。
ところが、映画において「ノイズという役割」でしかないようなレイバーがさ、現実世界に持ち込まれたら、もう、それだけで一つのエンターテイメントで、言っちまえば「映画という興業」に匹敵するぐらいに、あるいはそれをアッサリと超えちゃいかねないぐらいに、「実物大レイバーが都心に出現という興業」ってのが一つの世界観として成立してて、主役はっちゃって、実物大レイバーと押井守の映画とで、今、そして、この先に、出来事として事件として一つの生成物として、どっちが主でどっちが従かっていったら、明らかに実物大レイバーのほうが主なんだよね。
これって、果たして押井守が狙ったことなのかっていうと、たぶん違うんじゃないかと思うんですよ。たぶんね、押井さんは全長8mのパトカー塗装のロボットっていうオブジェクトについて、映画のスクリーンの中の役割でしか捉える気がないんだろうと。じゃあひとたび映画という枠を外れて現実世界に持ち込んだとき、それが、ひとつの独立した意味を持ち、出来事を生成しちゃうってことに、何の興味もなかったんじゃないか。そんぐらい、映画の中のイングラムの位置づけと、現実の中でもてはやされるイングラムは別物。
この落差をひっくり返すような映画を押井守が作るかというと、ちょっとないじゃないかと思います。もしやってくれたら謝罪して大絶賛するけど。ただ、エピ0&1にして、すでに客を選んでる時点で無理だろうと。それが押井守の選んだ「映画監督としてやってく」ってことなんだろーな、と。四角いスクリーンという思想に殉じて、その枠の中に閉じこもっちゃって、じゃあ映画を見ない、映画というカルチャーの外の人たちに訴えることについては、とっくの昔に投げちゃった感がある。
 
なんでそこまで実物大イングラムとかみ合ってないかっていうとき、押井は巨大ロボをSFの文脈でしか読み込めないと断じて、それ以外を拒絶してきちゃったような発言してる。
けど、実際の巨大ロボには、何よりも「人を模した形を介することで訴える力」があります。
たぶん、そのことを誰より強く意識してたのが冨野さんで、だからSFって枠をあっさり放棄してる一方で、ロボに囚われずにいろんな形でロボっぽいものを扱うってのをやってた。たとえば、実験的な試みではあるけど、人間の形をして違うサイズでありさえすれば、なんでもよかった。あるいは、ダイレクトに人間の縮尺サイズを弄って構図に組み込んじゃうとか。

「ヒトの形をしてる」「ヒトのように見える」というのは、キャラクターとかアウラとかいう以前に、やはり、人ってのが、社会や共同体の構成員になるためのプロセスを経ることで高度な認知能力を獲得してきた以上、外界を認知するための最初の窓口なのだと思います。巨大ロボという大きなヒトガタを介することで異なるアングルが見えるし、キャラクターである一方で、キャラクターの枠組みを壊していきもする。そういう大小のサイズ違いが混ざり合い交錯することによる立体的な視野を取り扱えるのを、富野さんの世代は、予算的にも厳しいTVアニメ業界を介して実写映画や大作アニメに劣らず現実に対抗していくための武器とみなしたんだろうと。
だから、SFアニメっていうジャンルフィクションが役割としては終わって、巨大ロボがかつて担ったものが文脈にがんじがらめになって逆に巨大ロボジャンルでは出来なくなってる現状下で、純粋な<大きなヒトガタ>を提示した「進撃の巨人」が出てきたってのは、流れに沿っている。
逆に言えば、「進撃の巨人」っていうトレンドの最中に、SFの残滓にすがり続ける実写版パトレイバーって選択肢は、なんか意味があるんですかと言えば、たぶん、時評的な態度をとるなら、なんの意味もない。
 
閑話休題
映画に話を戻すと、俺の隣の席に、幼稚園〜小学校ぐらいの子を二人連れた親子連れが来ていてですね。
最初は「勘違いして見に来ちゃったのかな?」って程度で自分が視聴するほうに集中してたんですが、上映時間が進んで「ああ、こういう路線ね」と想像がついてくると、「これは流石に子どもたち連れてくるってどうなの、ご両親に了解をとってお子様たちに実写パトの感想をきかないとモノの感想も書けないんじゃないか」とか間違った使命感に燃えてしまいまして。
さあ終われ今終われとゆーぐらいに上映終了を待ち構えて、明るくなってパパッと隣の席を見たところ。
 
お子様の片方が、これ以上ないってぐらいに、熟睡してらっしゃって。
お父さんが揺すっても、全然起きなくてさ、俺を含めた周りの大人たちが苦笑しながら眺めてて。結局、俺が場内を出る直前に様子をうかがっても起きてなくて、仕方ないのでお父さんが抱きあげるのが見えて、これ以上ない感想を聞かせてくれてありがとう、とか思いました。30年前にガンダムザブングルのダイジェスト映画のときは、どうだったんですかね。ロボ戦闘はきっちりあったから、もう少しマシだったのかしら。