本番

 なぜ本番が重視されなきゃならないかつったとき、まず規制の話がある。自主規制その他で成立してるポルノ業界の枠組みに拠ってること。一方でポルノの実質の流通に対して業界や上からの規制はもう追いつきそうにないこと。

 倫理が実際に相手にするのは性行為や性描写ではないし、そーゆーのは性の現場から遠く離れた領域での空中戦に本格的に移行してって性行為の周辺は割と置き去り。それでもポルノ業界は成立してて、そのライン引きに本番(精 液・体液)が観念的に見出されてる。ビデオショップで扱われてる10歳のリアル児童に水着や体操着を着させたDVDは18禁コーナーじゃなくて一般コーナー、カリブの海賊タイタニック号の横に置いてあるのだし、コンビニに置いてる女性向け雑誌の内容の「濃さ」は今さら言うまでもない。本番をダイレクトに描写する領域しか18禁ジャンルの付加価値は残されてない前提があって「一緒にイク」は成立し、だから幼女は意味を持つ。

///

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080226

 なんか見かけたので。

 性にまつわる表現を社会全体のレベルで規制するという倫理や論理や社会構造そのものからロリコンは発生する、ていう受け止め方をしといたほうがいいんじゃないかと思った。

「社会のカイゼンはお上がやってくれる」てのと「趣味趣向は個人の自由」てのとが上手いこと噛み合って回転をはじめたことにロリコン大量発生メカニズムが成立するわけです。自由と規制の問題の根っこ、自我や自意識や自己責任の話から「自己決定できない子供」て決まりが見出されてく。アニメがロリコン排出システムになったのは「アニメは子供向けのもの」ていう基本の枠組みを問い直さないまま中身だけが高年齢向けになってったからで。例えば人外ロリなんかは「理性を備えた・自己決定能力を持つロリ」で。実にアニメ的倒錯だなぁと。

 善悪の倫理とか普通に空回りしてるわけで上から何を言っても幼女ポルノは止めらんないし、やっぱ和姦の積極的肯定というコンセンサスで行きたい訳で。和姦エロってわざわざ積極的に取り上げて評価する必要がないと思われてる節があって、そーゆー態度ってエロ表現の根っこが貧困すぎるためだろうと。視覚メディア社会なんだから視姦が基本なのに視姦じゃないと言い張った結果、背徳感がないとエロが成立しないていう前提に依存する体質になったりとか。