セックスしてハッピーエンド、という、異常性

 クソ真面目に常識にしたがってシナリオを書くなら、話の途中でセックスした女の子とはラストでハッピーエンドに結ばれたりはしないというのは、まぁ、普通である。どんな話でも、そーゆーもんだ。ターミネーターだって、そうだ。セックスしたら死亡フラグ。BBだって小雪とセックスしちゃったから小雪死んじゃったジャン?

 ジャパニーズエロゲーは、だのに、その大原則を、セオリーを否定した。

 純愛和姦でそのままハッピーエンドに突入してしまうのである。

 そのようなシナリオ展開が当たり前だと、普通のことだと、そのような価値観の大系を作り上げてしまった。

 これが、人類史における空前絶後なのである。そんなもんは作劇じゃねえと思われていたのを、ひっくり返してしまったのである。話の中でセックスして、あられもない姿をさらして、プレイヤーはそれ見て抜きまくって、しかも二人はハッピーエンド。

 これが、どんだけ異常なことか。この異常性の達成が、どれほどの破壊的なポテンシャルを秘めているか。このようなカタチを肯定することが、どれほどの攻撃力を生み出しうるか、わかるだろうか。作劇の、物語の形式性による影響力を維持しつつそれが行なわれるとするなら、セックスの位置づけが、完全に変わってしまうのだ。もはやセックスは秘すべきものではない。純愛エロゲにおいて、セックスはゾーニングなんぞ一切うけつけない、パブリックな位置づけを獲得したのである。純愛エロゲを語る価値あるものと認めるならば、あらゆる規制やゾーニングは撤廃されなければならないのだ。わいせつなどという概念はそのようにして解体され消滅する。角川里見八犬伝で、薬師丸ひろ子がおっぱいも性器も晒して本番プレイをする、ということなのだ。

 エロゲ的価値観への21世紀的転換とは、そのようなものである。藤子F不二雄で食欲と性欲の社会的位置づけが転換した世界に紛れ込んでしまう話があったが、まぁ、あんな感じに全員が思考をシフトさせてくのだと思っとけばいい。

 今木イズム・エロゲ論壇とは、そのような革命的価値転換を積極的に肯定する立場の表明である。

 それを否定してなんか女の子と別れてボクの自我わ保タレマシタなどとゆー退屈な展開は、しょうじき、うざったいだけだし、どうでもいい。いいよ別に世の大半はそーゆー価値観で生きてるっぽいし、そっちいけば? エロゲをやる意味ないよね、という。