クジラックス「ろりとぼくらの。」TENMA COMICS LO

なんか
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20121123/p1
とか読んでですね、なにこの変な状況。っていうか「僕らの大好きなエロ漫画が汚されちゃう!」って感じになってて、すごい嫌だったので、勢いで書いてみます。

元々、LOに掲載されてた「学祭ぬけて」が凄い好きでして。作者ご本人のサイト(ttp://quzilax.blog63.fc2.com/)のトップに「優しくて」「面白くて」「かっこいい」ってなってるアレです。あれがもう、実用的な意味でも二桁じゃきかないぐらいに、ゆなちゃん愛してしまいましたし、この中に出てくる「茶番」て一言が、好きで好きでたまらなくてですね。いいよね茶番って日本語、などと言語的価値観が変わるぐらいに好きで。

茶番なんですよね、ロリ和姦もの。そりゃそうですよ。茶番だから貴重だし読んでて幸せだしさ。いいよなーって思えるんです。
「学祭ぬけて」もね、すごいファンタジーなんですよね。途中まで完全にレ○プでさ。けど途中で、襲われてるゆなちゃんの側の意識が変化することで和姦になっちゃうんですけど、それが飲尿によるところが素晴らしい。

「あっ」「これはっ」「おしっこ……!?」「小五女児のっ」「イきたておしっこ!!」「伝説の!!」
「いあ ひ いわにゃいでぇ」
「俺が先だあああああああ」
(!?)
「わーわーっ 直飲みいいなー」
(ーーーー!!)
「ねぇ どんな味? あったかい!?」
(えっ えっ)
(なんで……)
「うめええええええ」
「おい! 早く代われよ 止まっちゃうよ!」
(なんであんな幸せそうに飲んでるの?)

そりゃ、ロリオタの文脈を知らない小五女児のゆなちゃんにとっては、わけがわからないですよね。なんで、おしっこを飲むのが、そんなに幸せなのか。
そもそも、「おもらし」のこの文脈というのは、エロ漫画よりはエロゲーの側の文脈です。東鳩のマルチがエッチシーンでおもらしするのが、おそらくは時代の転換点でした。言うまでもありませんが、マルチはメイドロボ、つまり、ロボットです。
ロボなのに、おもらし。
これで、おもらしの意味が変わりました。元来、尿プレイはスカ○ロ趣味として、かなり高度な変態嗜好に分類される代物でした。それが、マルチが(メイド的ご奉仕の意味でもなく、ロボ三原則的な従属の意味でもなく)「本当に身体を開いて感じてくれている」証明として、「おもらし」したことにより、女の子の尿は、愛しあう二人の気持ちをつなぐ精神的紐帯としての意味を持つようになった。純愛を語り合うためのツールへと、その意味を大きく変化させたのです。その後、「尿=純愛」の路線を意識的に強く押し進めたのはエロゲ―「水月」でした。「水月」はロリ少女と大人の男との体格差を強調する和姦シーンなど、後のロリ物・和姦物への影響が大きい作品だったりするのですが、そんな「水月」でほぼ全ヒロインがおもらしするそのインパクトによって、和姦といえば尿、という意識づけが進んでいったのです。

あのですね。
リンク先の記事で「エロゲーなんてのは変な方向に進化したよなって気はしますね。18禁なのに、エロ以外の物が求められる」「エロマンガはそこまで発展してなくて、基本オナペットになるかならないか」と書かれていますが、もちろん、そんなことはありませんでした。
そもそも往時のロリものなんて、SFファンが詰めかけて盛り上げようとしたようなサブカル臭めいっぱいの代物だったりしましたし、ロリ絵柄のエロ漫画といえば自慰に使えるんだか判らないような作品ばっかでした。昔はそもそもエロ雑誌といえば劇画ばっかりで、ロリ絵柄で素直に抜かせてくれるものなんか、ろくすっぽ、ありませんでした。
さらに言いますと、単に愛しあう男女が和姦するだけ、のエロ漫画というのも、昔は少なかったんです。単にゆきずりで合意エロするだけの、おおぬまひろし先生の作品がどんだけ貴重だったことか。エロ劇画となれば背徳的じゃなきゃ駄目ってな感じだったし、肝心のロリ絵柄となれば、みんなストーリー入れたがるし、ロボ書きたがるし、バトルしたがるし、変態性癖がすごい偉そうだし、サブカル評論ヒエラルキー的に森山塔が最高峰だし(そりゃエロいけどさ、けどもさ)、蘭宮涼とかものぐさうるふの漫画が簡単に入手できるようになるまで、女性作家系統の、なんか可愛い子が単にエロいことしてるってだけの話が時代を変えてくれるまで、あるいはエロゲ―の側から純愛和姦が逆輸入されるまで、俺ら本当に肩身狭かったんですよ……!!!

時代は変わりました。背徳感がなかったらエロじゃない、みたいな風潮が薄れていって、たとえば近親相姦も、大量生産によって背徳感は単なる言い訳となり、どちらかといえば好き同士の和姦のニュアンスが強まるようになりました。これは本当に大きな変化なんです。いわゆるところの「ヤマなし、オチなし、意味なし」の、単に好き好きチュッチュするだけの風潮がエロ漫画の主流のように言われる時代がくるなんて。

でも、リンク先が言うほど、和姦が当たり前ってことはないですよね。実際。
レ○プ普通に多いし。サブカルも多いし。個人的に地味にジワジワくる嫌な話っていうと嶺本八美「無防備年齢宣言」です。単に夢も希望もないってだけの話ですが、それまでの嶺本作品よりか「ガチ」なのもあり、ただ夢がないってだけで嫌な気分になれます。自意識過剰なエロ漫画が読みたいんでしたら、どうぞそちらへ。

それなのに、例によって、適当にオタネタに首突っ込んで物言っとけば金になるいつものアレがよりによって余計なアオリ入れやがったりしてさ。

ああいや。アレが言及したってだけで、好きなもの汚されてる気分になりましてですね。

どう言えばいいんでしょうね。
ゆなちゃんが可愛いんですよ。
いや。ゆなちゃんの可愛さって尋常じゃないですよ。だってもう、夢みたいな理想の女の子でしょう。
こんな理想の女の子とエッチできちゃうって段階で、そりゃもう、どうしようもなくファンタジーですよ。そのファンタジーを、すごく丁寧に、僕らのところまで引き寄せてくれる。レ○プでしかないものを、おもらしの奇跡によって心と心をつないでくれる(オタ文脈的に)。飲まなきゃ駄目なんですよね。

今回、なんかね、収録作中のレ○プ物が大々的にもてはやされて、それは読んでて僕も良い物だと思うんだけど、でもさ、そこにあるのは、別に、そんなに変な物じゃなくて、ごく当たり前にね、ロリオタである僕らがロリの女の子とエッチしたいっていうファンタジーを、どう実現するかと考えていくときに、ごく自然に出てくるものだと思うんですよね。だって、本気で小中学生とエッチしたいって思ったら、今のご時世、レ○プか、レ○プまがいにしかならないのが当たり前でしょう? 正面から突破しようと思ったらそうなるしかない。逆に言えば、それを手がかり足がかりにして、僕らはロリエロ漫画の中にダイブするわけじゃないですか。僕らは、女の子の気持ちだって手に入れたいんですよ。発表順序見ればわかるけど、女の子レ○プして「僕達もうすぐ死ぬからっ」って言い訳した話のあとに、女の子に「殺したいよ?」って言わせる話ですよ。女の子の心の底まで手に入れたい、レ○プしてでも君とつながりたい駄目な僕のほうを向いて欲しい、以外の何ものでもない。

小中学生美少女とエッチしたいって夢に対して、ひたすら真摯なんですよ。どうすればエッチできるか。レ○プするしかないなら、レ○プした相手と、心と心で繋がるにはどうすればいいのか。許されたい、罰されたい、相手を知りたい、こちらを晒したい、ただひたすらにそういう話じゃないですか。本気で次元を超えようとしてる。純愛エロゲの大半がそういう願望を捨て去って、単なるお話メディアになっちゃった今、ギャルゲエロゲに煽られて次元の壁を超越しようとしてもがき続けてる俺らの魂の行き場所はどこか。

まあね、そんなことはさておいて、ゆなちゃんマジかわいいので、変な色眼鏡かけずに、ぜひ読んで欲しいです。

………いま俺、某県と争ってる経緯をここに書いたりしてて、名バレ上等(行政は訴訟だなんだというと、こっちのHPとか逐一チェックするんだそうで、今までに裁判の話を書いてる時点で、ここの場所はチェックされてる可能性が高い)なんだけど、そんなところにコレ書いちゃって良かったのかと、少し反省しつつ。