アニメとか

http://d.hatena.ne.jp/REV/20080221/p2

 今月(4月号)と来月(5月号)のメガストアのコラムがソニアの記事。

 演出て言葉を使って話をするなら素直にコンシューマーとの往来を視野に入れたほうが話が広がるよなーと毎度のことながら思う。はてなダイアリーに移行しなかった人たちが割とPC−FXの話が好きなのはやっぱプラットフォームごとの世代差か。

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 陵辱ゲ。

 レビューと称してレビューしない文章ばっか見かけるなぁという話なんだけども、それを書き手の問題にするよりエロゲ形式の構造的な問題だと考えたほうが建設的。

 で、「人を選ぶ」という説明は陵辱というエロジャンルを単なる趣味の差、ジャンル分類として扱ってないわけ。ジャンルの外にいる人たちを視野に入れた言い方だからね。つまり中途半端な物言いで、その中途半端さを自分に対して許容する根拠には優越感ゲームが根ざしてる。そーゆー態度だと外からのエロ規制のロジックに対抗するには論理が立たない。例えば、
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795
みたいのに対して「ひょうげんのじゆう」原理主義な叫びしか出来ないんじゃ役に立たないを通り越して邪魔。

 まずは陵辱ジャンルに一定の定義、解説を与えたい。

 で、陵辱エロって推理物ジャンルに極めて近いと言っていいと思う。いわゆる普通の小説ジャンルをエンタメとして大量に消化してくには小説は困難すぎる。だからまぁ、エログロに古臭い説教節をカムフラージュして詰め込める推理物の形式は便利だ。現代フィクションを経済的に下支えする土台と言っていい。サブカルというより社会を支える土俗文化。

 陵辱エロもまた、エログロに保守的な説教節を入れるのに都合良い土俗文化的な場所に位置づけられる。で、推理小説はその立ち位置を外部に説明する筋道に小説ジャンルを要するが、陵辱エロは現状そうした経路が明確でないために外部に向けたロジックがない。

 ここで和姦エロを陵辱エロの原理経路として見出したい。和姦エロはエンタメ消費は困難だが陵辱エロはエンタメとして成立する。この迂回の形式が成立すればエロは論理的正当性を獲得できる。つまり東浩紀が鍵ゲーを使って主張すべきは

 発育の足りてない幼児との和姦は正当でアクチュアルな人文的テーマ

ということだ。