エログロ

「エログロ」を言葉として掲げると融和主義に近しくて。全体に勢いがあって成長拡大してるときは追随していけるけど、反発や規制を食らったりすると弱い。

 てゆかロジックで整理する前の雑多な状況そのものとほぼ同義、「文化以前」に近しいラディカルなオブジェクトだから当たり前つったら当たり前だが。なので「エログロ」という単語やそれが指す対象にはあまり意味がない。「エログロ」として示されるものの個々の事例それぞれの珍しさやインパクトや魅力や面白さはまとめられるものではなくて、ロジックには接続できないし個々人の内側を除いては積み重ねを獲得するのも難しい。

 雑多性を細かい衝突を避けて許容してくため保守的姿勢を採用するのは一つの選択肢だが、「見かけのジャンル化」が進行するとあっさり不寛容な態度にスライドするので注意が必要。例えば「フリーク愛好」はオタ内の流行として定着しているがフリーク愛好者を自称するオタが「知的フリーク」「精神的フリーク」の幼女や、幼女同然の鍵ヒロインは避けて通る。つまり、フリークを目で見て楽しむ(対象化)はアリだけど、感情移入したり共感したり心を開いたりする(同化)のはダメなのね。現実の問題解決に向けては対象化を徹底して推し進めていくほうが合理的ではあるのだけど。

 で、フリーク愛好は対象化から生じる問題は閑却するのが前提なので、そのエログロ分野を趣味趣向とするにあたっては可能な限り対象化の問題に配慮していきたい。