コンシューマーとPC

 こないだの『学校であった怖い話』シリーズの同人のやつ。

http://www.takiya.jp/78/amc/

 吉里吉里を使ってる段階でPCのノベルゲーや、それに準じた同人ノベルゲーと比較されるんだろうと想像ついたのだが、やっぱり「シナリオが本格的な物語かどうか」とか「何度も最初から読み返させる仕様は今さら辛い」とかの感想を見かけて。なんか、サウンドノベル文化と、RPGAVGの物語ゲーム文化を愚直に受け継いでるエロゲ・同人ゲーの文化の温度差みたいのが。

 そーゆー文句を言う人はレビュー記事をネットにあげる人であり、まぁ、エロゲ・同人ゲ文化圏の視野で物言ってるのだから気にしないでいいっちゃいい、のだが。

 既読スキップをどう扱うか一つでも、ゲームデザインの領域なわけですが。中途でセーブ&ロードを繰り返させたくないから敢えて既読率の判断をプレイヤーのセーブデータの中に繰り込んでんじゃないか、なんてのも含めて。

 ゲームの部分てのは物語にとっては邪魔でしかないのは、ある程度は誰もが判ってる事で。

 なんだけども、ゲームと物語の根源的な矛盾に対する鈍感さ、わかってなさみたいのを、TRPGの文化圏とか「シナリオ重視型」ゲームの文化圏とかがずーっと育ててきてる部分があって、そーゆー全然判ってない倒錯が僕らの根本にあって。

 吉里吉里のシステムを封印してることに対する批判てのは、そゆのに対する理解が足りてないのだと思う。もう、世代的にもゲームの部分はどうでもいい人たちが増えてるのだろうし。

 んでも、祭りに参加するならアニメ実況で事足りる、エロシナリオなんか今どき同人で足りる、プロのエロゲライターとか今さらいらない、それでも8800円のクソ高いエロゲに金払うって何を期待してるのかつったら、ゲームのシナリオ文化に対する倒錯した執着だ。だって、他には何もないんだから。