100年でも

 学園ウィズなり、サモンナイトなり、なんなり、延々とプレイできると思う。同じ本を100回読む、でも同じことだが。無人島に持っていくアニメとしては、味楽る!ミミカを絶賛推奨ちゅ。

 というか、ゲームってのは、そーゆーもんで。自分の身体や思考のほうをゲームのフォーマットに合わせる。それは、発展とか積み重ねとかいう方向性の発想とは180度違う。

 この際、物語だって成長だって自我だってゲームなんだけども、という話は置いておく。

 sola4話。

 ギャルゲーだ。

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 日常、みたいのが多用されます。日常ってゆか、アシュタサポテ的な場所ね。病院に行くのに必ずぬいぐるみを買っていく習慣とか、レストランで必ずバイトとか、レストランで必ず夜食とか。んで、「欠け」がでてくる。今日だけぬいぐるみを忘れました。ずっと入院してたのが、退院することになりました。

 欠けについてはもちろん、林の中のひとつの切り株であり、商店街の中の空き地であり。前後の話とアカラサマに途切れて1話で完結してるふうに見えるのも、この場合は割と大事。「そら」も、「ひかり」も、もちろん。

 内発的な行動ではなくて環境に左右される行動。それが日常という言葉の解釈で、人間関係に向かわないし依拠しない。面と向かって話せない、て言えば簡単だが。ただ、突き詰めてくと麻枝キャラと別の意味で人間じゃないだろう、と。てゆか、環境よって行動が全てコントロールされるってのは、あれです、別の言い方としては「動物」ってやつです。うぐぅうぐぅ、野良うぐぅ

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「日常」は読者のよく知っている道具立てとして持ち込まれるもので、社会派ミステリの「社会」てのは例えばそういう「日常」。違いは「箱庭」と「社会」の差で、つまりは、作られた日常であることを隠そうとしない。鑑賞物として作られているからとも言えるが、ゲームシナリオというフォーマットや他人の作った設定に乗っかってきたから、そういう手癖がついてるという見方のほうが現状だと妥当か。
 唯一のオリジナルである『Kanon』の、メインの月宮あゆシナリオはまだ読めてないので、このへん保留。