召喚魔法と異界の越境と その10

 FF10ネタバレ。

 念のため、それでもFF10は一つの正しさを貫いている以上、作品として許容されるべきだ。

 シナリオ上の語りの切断であり構成上の分裂である回想シーンとそれ以降がレベルやアイテムの数値によって連続している、その一点が守られているためだ。FF4、FF7において経験値を注ぎ込んだPCが入れ替わり、それまでのプレイヤーの労力が無駄になってしまった数の積み重ねの断絶の痛みと比較して、FF10のそれはRPGとして淀みなく繋がっており、圧倒的に正しい。
 ドラマとは、物語とは、社会常識を語ることである。FF10は一見して生と死の曖昧さにおいて社会常識に反しているかもしれないが、それはファンタジーであるという一言で説明が足りる。むしろ「1+1=2」という社会常識が滞ることなく全体を貫いている点において(現実の生活で単純な計算式が通用しないことのなんと多いことか)、FF10は誤ることなくエンターテイメント性に従事している。

 問題はむしろ、生と死が入り交じる世界を否定してしまうシナリオのイデオロギーだろう。ここでようやく、本題に入る。

 FF10において強力な必殺ダメージを叩き出すことの出来る召喚魔法を巡る描写は、世界観を決定する重要事項である。死者が復活して歩き回ることが可能なのも同じ原理だ。夢を具現化する媒介が満ちているFF10の世界は、だからこそファンタジー世界なのだ。

 しかしそれは、「現実を抑圧して成立している夢」として、シナリオによって否定される。飛空艇入手後に、夢の紡ぎ手たち自身から、夢と現実を明確に切り分け夢を否定し終わらせることが安易に語られてしまう。クライマックス、FF10の世界の象徴的存在であった召喚獣たちは次々とPCの手で屠られ、その果てに主人公ティーダもまた夢の存在であるために最後に消えることになる。召喚獣も、ティーダも、戦闘に参加させアビリティを覚えさせ能力値を伸ばしてきた、プレイヤーにとってのかけがえのない夢の成果だ。それらを儀式的に自らのコマンド操作で破壊する、その行為が精神的自殺に等しいことは、シナリオ内でも言及されている。

 幸いにしてFF10では「やりこみ要素」が満載されているため、プレイヤーはラスボスの100倍のHPを持ち10倍のダメージを与えてくる強大な敵の数々と戯れ続けることが出来る。それらに埋没したEDシナリオは、もはや例外イベントと呼べるほど矮小だ。

続く。